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 2008年6月14日にスキューバダイビング中の事故により44歳でこの世を去ったスウェーデンのピアニスト、エスビョルン・スヴェンソンの訃報に接した時は、特別な感情を抱いた。その理由は、筆者がそれまでに行ったエスビョルンへのインタヴューの会話の中で未発表となっていた“ある部分”をふと思い出したからである。すぐにこのサイトで紹介することを考えたが、その時はそのままにしておいた。エスビョルンが語った「人生とスピリチュアル・ワールド(あの世)に関する話」は、彼が他界した直後では、あまりにもタイムリーすぎて公表する気になれなかったのだ。しかし、エスビョルンの死後1年半を過ぎたころになって、あの部分は“本人の生の声”で紹介したいと思いはじめた。そしてやっと今回、5分弱にまとめたエスビョルンの言葉をマイスペース・サイトにアップすることができた。前回のジョー・ザヴィヌルの声と同様に、日本語訳もマイスペース・ブログの方で紹介している。

エスビョルン・スヴェンソンの声 日本語抄訳 >>
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第3回:エスビョルン・スヴェンソン(当サイト内記事)
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by reijimaruyama | 2010-02-23 17:23 | Information

ジョー・ザヴィヌルの声

マイスペースでミュージシャンの生の声を紹介
 これまでいろいろなミュージシャンへのインタヴューを行い、その記事を雑誌やこのサイトなどで紹介しているが、“彼らの生の声”をみなさんと分かち合いたいと思うことが時々ある。ミュージシャンも人の子だ。本人のその日の体調などにも左右されると思うが、何でも気さくに語ってくれる人もいれば、気難しい感じで取材がスムースに進まないこともある。筆者は、特別なケースをのぞいて、それらの会話をテープやMDなどに録音しているが、あとでそれを聞きながら日本語の文字に起こす際に、新ためていろいろと考えさせられたり、思わずニヤリ、さらには大笑いしてしまうこともある。ミュージシャンたちが演奏する楽器の音や歌声は、コンサートやCDなどで聴くことが出来るが、「普段はどんな声でどんな風にしゃべるんだろう?」と興味を抱く方もいるのではないだろうか。
 ということで、これまでに取材で録りためたミュージシャンの生の声を、ほんの一部ごくわずかではあるが、今回新たに立ち上げた筆者のマイスペース・サイトで紹介することにした。
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 どの程度のことが出来るのか、やってみないとわからない。このページに新しい記事を投稿するだけでもかなり長い期間を要しているので、“亀のペース”どころではなく“ナマケモノ”のようにじっと動かないことがあるかもしれないが、マイ(ス)ペースで紹介して行きたいと考えている。

 まず手はじめに、本サイトの第14回でも紹介した天才キーボーダー、ジョー・ザヴィヌルの声をアップしてみた。ザヴィヌルが筆者に語ってくれた言葉の中から、自身の即興スタイル、機材トラブル、パコ・セリー、ジャコ・パストリアス、ウェイン・ショーターなどについてのコメントを3分弱にまとめてある。興味のある方は、筆者のマイスペース・プロフィール(下記のリンク)で表示されるミュージックプレーヤーの再生ボタンをクリックしていただきたい。英語が苦手な方のために、インタヴューの前日に行われたザヴィヌルのライヴのエピソードなども多少書き加えた日本語の抄訳をマイスペースのブログにアップしてある。

ジョー・ザヴィヌルの声 日本語抄訳
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by reijimaruyama | 2009-12-13 16:20 | Information

 ちょうど1年前の今日、2007年9月11日にジョー・ザヴィヌル(kb)が亡くなった。筆者が最後にザヴィヌルの勇姿を見たのは、その2ヶ月前にオランダのロッテルダムで行われたノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルの初日(2007年7月13日)に出演したザヴィヌル・シンジケートのライヴだった。ザヴィヌルの愛したドラマー、パコ・セリを加えたバンドの演奏はとてもエネルギッシュで、ザヴィヌル本人もいつものようにステージ上でメンバーに自身の身振り手振りやその表情であれこれと指示を与えながらのプレイでザヴィヌル節が全開だった。その時は、「ずいぶんやせたなぁ」と思ったが、まさかあの後すぐに具合が悪くなって、あんなに早く逝ってしまうとは夢にも思わなかった。
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Joe Zawinul
2007年7月13日、死の2ヶ月前にノース・シー・ジャズ祭に出演したジョー・ザヴィヌル

 2002年の夏、ジャズライフの記事のためにノース・シー(当時はハーグ市で開催されていた)でザヴィヌルにインタヴューした。その時、はじめてお互いに目と目を合わせたのだが、そこで筆者はザヴィヌルから個人的なお褒めの言葉をいただいた。「君は輝いているね(you are bright)」というその言葉にとても勇気づけられたのだ。こちらは、以前からあこがれていた天才ミュージシャンに対していろいろと質問することができて、ただ舞い上がっていただけなのかもしれないが、ザヴィヌルの目にはそれが“輝いて”見えたのかもしれない。そんなこともあって、これまでにも時代を築いた素晴らしいミュージシャンが数多く亡くなっているが、昨年9月の「ジョー・ザヴィヌル逝く」の報は個人的に特別なものだった。「ザヴィヌルの本拠地だったウィーンのバードランドを訪ねてみたい」という思いは自然とこみ上げてきた。そして、ザヴィヌルの49日を数日過ぎた頃に当たる11月2日と3日に、バードランドでリチャード・ボナのライヴが2日間組まれているのを知り、「これがチャンス!」と意を決した。

 2007年11月2日金曜日、小雨のぱらつく午後のケルン空港(ドイツ)を飛び立ち、1時間半後に曇り空のウィーン空港(オーストリア)へ到着。その足ですぐにウィーン市内中心部のヒルトン・ホテルの地下にあるジョー・ザヴィヌルのバードランドへ向かった。その夜はボナ・バンドのライヴを観たあと、ザヴィヌルの息子(次男)エリックに会いバードランドに関する話を聞いた。そして翌日、ザヴィヌルのマネージャーを20年間務めたリザ・ツィンケ(Risa Zincke)女史にインタヴューし、さらに彼女の案内でザヴィヌルのお墓参りをした。この時のウィーン取材リポートは、ジャズライフ2008年1月号に掲載されたが、ここではその記事の中に収めきれなかった話をかいつまんで写真と共に紹介してみたい。特に、ただひとりだけジョー・ザヴィヌルの75年と2ヶ月の人生最後の瞬間を見届けた人物であるツィンケ女史は、ザヴィヌルが2007年夏のラスト・ツアーを終えてから死の床に伏して最期に至るまでのあまりにも悲しい様子も話してくれたので、今回あえてその部分も記しておこうと思う。

ジョー・ザヴィヌルズ・バードランドとウィーン中央墓地 >>

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by ReijiMaruyama | 2008-09-11 23:49 | Musician / Interview

 2005年のノース・シー・ジャズ・フェスティヴァル(オランダ)にステップス・アヘッドが出演した。4本マレットを使うヴァイブラフォン奏者マイク・マイニエリをリーダーとするこのバンドのライヴは、事前のメンバー発表によればマイニエリ以下、マイク・スターン(g)とマイケル・ブレッカー(ts)というフロント組が、スティーヴ・スミス(ds)とリチャード・ボナ(b)のリズム隊をバックに共演するということで期待していたのだが……。
 70年代末に“ステップス”という名前で活動を開始してから四半世紀という長い歴史をもつこのバンドは、これまでメンバーが数多く入れ代わっても、マイニエリとブレッカーのコンビが“看板”だった。ところがなんと、この時はマイケルが欠けてしまった。マイケルは、その夏のヨーロッパ・ツアーを目前に控えた6月にニューヨークで行なわれたステップス・アヘッドのコンサート直前になって病気のためにリタイヤ。そのため、ビル・エヴァンス(ts,ss)が急きょ代役を務めることになったのだ。マイケルが患ったのは、「骨髄異形成症候群」という血液がんの一種で白血病に進行することも多い深刻な病気だった。
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Michael Brecker 2004年7月10日ノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルで最後に見たマイケル

 現代ジャズ・サックスの最高峰と言われていたマイケル・ブレッカーは、その時からツアーの予定をすべてキャンセルして闘病生活に入った。1年後にはハービー・ハンコックのステージに飛び入り演奏するなどして容体は回復に向かっているとの報もあったが、病を克服するためには彼と完全適合する骨髄の移植手術が必要だった。その骨髄提供者(ドナー)をなんとか探し出そうと、マイケルの家族や友人、大勢のファンらが尽力するが、その努力も実らず、マイケルは、2007年1月13日に白血病のため他界してしまった。

印象に残るマイケルの言葉
 マイケルを最後に見たのは、その前年、2004年7月の同ジャズ祭に彼が3日間出演して大活躍した時だった(上の写真)。マイケルは、オランダのコンサヴァトリー(音楽学校)の学生達と一緒にクインデクテット(5管やストリングス・クァルテットなどを含む15ピースのバンド)でプレイし、アコーディオンやバンジョー、サンプラーなどを使ったオランダのモダン・クリエイティヴ・フリー・ジャズ・バンドのファーマーズ・マーケットとも共演。そして、ジェフ・ティン・ワッツ(ds)、クリス・ミン・ドーキー(b)、ジョーイ・カルデラッツオ(p)を従えた自己のクアルテットやソロ(独奏)・コンサートも披露し、さらにサックス・ファンを前にしてワークショップ(クリニック)まで行うという充実ぶりを見せていた。「ここ最近半年間ぐらいは、ニューヨークに住むブルガリア人のヴァイオリニストからブルガリアのフォーク・ミュージックを学んでいるよ」と筆者に打ち明けてもくれた。その時、「いまでも新しいことを学んでいるマイケルは、まだ50代でこれからますます円熟して行くだろう」と思わせてくれたのだ。
 そのジャズ祭のワークショップでマイケルが語った言葉の中に、いまでも印象に残っているものがある。それは、作曲について質問があった時に言ったこと。「曲のアイデアがあったら、そのまま放っておかないで“とりあえず”でもかまわないから最後まで仕上げた方がいい。そうしないと机の引き出しの中が未完成のアイデアだらけになってしまうよ(笑)」というものだ。筆者は、それを聞いた時に「“とりあえず”なんて、そんなやり方で良い音楽が作れるだろうか。良いフィーリングが浮かんでこない時に無理して曲を最後まで仕上げる必要なんてないのでは?」と思った。しかし後になってマイケルの重い病のことを知らされると、あの時の彼の言葉は、すでに自分の病に気づき、あるいはひょっとしたら、自分の死期がそう遠い先のことでないかもしれないとまで悟った上でのレクチャーだったのか、とも思えてくる。「人生、いつどうなるかわからない。いまできることを最後までやりなさい」ということをマイケルは暗に言いたかったのではないか、と。

マイケル・ブレッカー&パット・メセニー・スペシャル・クアルテット
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Michael Brecker & Pat metheny Special Quartett with Bill Stewart(ds/left) and Larry Goldings(org/right)

 こちらの写真は、2000年7月14日のノース・シーのステージ。この年の夏はパット・メセニーとスペシャル・クァルテットを組んでヨーロッパをツアーした。ドラムはビル・スチュワート(写真左)、オルガンがラリー・ゴールディングス(同右)というベースレスのバンドだった。

そのライヴの後でラリー・ゴールディングスに聞いた
——オルガンのペダルでベーシストの役目も果たすあなたは、演奏中とても忙しそうですね?
ラリー・ゴールディングス(以下LG):忙しいけど楽しいよ(笑)。でも「ここでベーシストがいてくれたらなぁ」と思うことが時々あるのも事実だね。それにピアノを弾きたくなることもあるよ。だけどこの編成(ベースレス)では、ピアノでベース・ラインまでカヴァーするのはちょっとキビシイ。だからペダル・ベースが必要なんだ。
——マイケルについて一言お願いします。
LG:マイケルは天才だよ。彼は僕のフェイヴァリット・ミュージシャンのひとりなんだ。僕は、以前からジェイムス・テイラーやポール・サイモンのアルバムなどでマイケルの演奏を聴いていた。でも彼と一緒にプレイできるなんて思ってもみなかった。その頃はマイケルのことをポップ・サックス・プレイヤーとして聴いていたんだ。自分とは違ったシーンにいる人だと思っていたんだよ。
——パット・メセニーについてはどうですか?
LG:僕にとっては、パットは、マイケルと共にもう1人のヒーローだ。僕がジャズに興味を持ちはじめたのは12歳ぐらいの時からだけど、パットの音楽はそれよりもっと前から聴いていた。だからこのバンドは、僕にとっては、まさに“ドリーム・カムズ・トゥルー”なんだよ!

ブレッカー・ブラザーズ
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Brecker Brothers The Return of the Acoustic Band

 2001年7月15日、ブレッカー・ブラザーズ・アコースティック・バンドでノース・シー・ジャズ祭の最終日に出演。この時は、兄のランディー・ブレッカー(tp)、弟マイケル、デイヴ・キコスキー(p)、ピーター・ワシントン(b)、カール・アレン(ds)というメンバー。

ディレクションズ・イン・ミュージック
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Directions in Music Celebrating Miles Davis & John Coltrane
Herbie Hancock/Michael Brecker/Roy Hargrove


 60年代の中期、ハービー・ハンコック(p/1940年生まれ)は、マイルス・デイヴィスのクインテットでプレイしていた。マイケル・ブレッカー(ts/1949年生まれ)は、その頃、多感な10代でマイルスやコルトレーンのレコードを愛聴していた。そして、ロイ・ハーグローヴ(tp)が産声を上げた時(1969年)には、ジャズの偉人コルトレーンはすでにこの世を去り、マイルスはエレクトリック化への新たな旅立ちをはじめていた。ジャズの世界では祖父、父親、息子のような3世代のミュージシャン、ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローヴの3人は、2001年の秋にジョン・パティトゥッチ(b)とブライアン・ブレイド(ds)をバックに、マイルス&コルトレーン生誕75周年企画ライヴをトロントで行い、それをレコーディングしたアルバム『ディレクションズ・イン・ミュージック~マイルス&コルトレーン・トリビュート』を2002年5月にリリース。そしてその夏、ジョージ・ムラーツ(b)とウィリー・ジョーンズⅢ(ds)というリズム隊ふたりを加えてヨーロッパをツアーした。写真(上と下)は、2002年7月12日、ノース・シーの初日に出演した“ディレクションズ・イン・ミュージック”のステージ。
 そのライヴは、前述のアルバム収録曲を中心に進み、最後は“未解決”の雰囲気を持つチューンで終了。それはまるで、完結すると思って観ていた最後の最後に“つづく”の3文字を見せられたような、マイルスとコルトレーンの音楽は「永遠につづく」とでもいうような見事なカット! マイルスとコルトレーンに対するハービーとマイケル、ハーグローヴらの愛情の深さを感じさせてくれる上質のライヴだった。マイケルが行った「ナイーマ」独奏では、どっしりとした太い低音、つやのある中音、それにハイ・トーンのフラジオが唸り、途中でこれは究極のスケール練習か? と思わせるような素早い登り下りのパッセージや微妙なビブラートで見事にコントロールされたしっとりトーンなどをたっぷりと堪能させてくれた。
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 マイケルが死の直前まで制作作業を続けて完成させたという遺作アルバムは、彼が残した作品の中でも最高傑作との評価を得てグラミー賞も受賞した。
 そのタイトルが『聖地への旅』(原題:Pilgrimage)というのは、なんともファン泣かせである。

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by ReijiMaruyama | 2008-05-15 13:03 | Musician / Interview

 スウェーデン出身のピアニスト、エスビョルン・スヴェンソン率いるe.s.t. (エスビョルン・スヴェンソン・トリオ)。北欧のピアノ・トリオである。“北欧の~”というと、美しく洗練されたアカデミックなサウンドをイメージするが、e.s.t.の音楽は、その“北欧っぽい”奥の深さや透明感、清涼感だけではなく、まるで地下でグツグツと煮えたぎるマグマのように量り知れないエネルギーが潜んでいる。
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Esbjörn Svensson (e.s.t.)

 ピアノの弦をはじいたりボトルネックやエフェクターなども使って厚みのある音を作り出すスヴェンソン。アコースティック・ベースにワウワウをかけたファンキーなプレイや、ボウ(弓)で幻想的な世界を演出するダン・ベルグルンド。ドラムンベースやヒップホップのビートを織りまぜながら、エフェクターを効果的に使ったドラム・サウンドを駆使するマグヌス・オストロム。じわじわと緊張感を高めながら徐々に演奏を盛り上げて行く彼らのライヴを体験した者は、インプロヴィゼーションの楽しさを存分に味わう事になる。

 エスビョルン・スヴェンソンは1964年4月16日生まれ。スウェーデンのスクルトゥナという小さな村で、母がクラシック・ピアノを弾き、父はデューク・エリントン等のジャズを愛聴するという家庭で、ラジオから流れてくるポップスの影響も受けながら育った。「最初はマンドリンを弾いて歌っていたんだ。ピアノは、11才の時にレッスンを受けはじめたけど、とてもクラシカルで退屈だったから2ヶ月ぐらいで止めちゃったよ。でも、その後も家ではピアノでいろんなメロディを弾いたりしていた。そんな頃、近所に住んでいたマグヌスがクリスマスに手に入れたドラム・セットを僕の家に持ってきて組み立てたんだ。僕はCメジャーとかDマイナーなどのシンプルなコードを弾き、マグヌスがリズムをプレイして、僕らはそれに合わせて歌詞をつけて歌った(笑)。これがそもそものはじまりだね」。スヴェンソンはストックホルムの大学で4年間音楽を学び、80年代中ごろから北欧ジャズ・シーンでサイドマンとして頭角を現わし、90年にマグヌスと共に自己の名を冠したトリオe.s.t.を結成。そして、93年にダンを迎え入れてアルバム・デビューした。その後、本国スウェーデンで“ジャズ・ミュージシャン・オブ・ザ・イヤー”や“ベスト・ソング・ライター”等のタイトルを手にし、99年のアルバム『From Gagarin's Point of View』でヨーロッパにおける知名度を高め、翌2000年に発表した『Good Morning Susie Soho』の成功によってその人気を確実なものにしている。

 写真は、2002年11月8日にドイツ・レヴァークーセンのジャズ祭に出演した時のステージ。ピアノの上(彼の右手の前あたり)には、POD(デジタル・アンプ/エフェクト・シミュレーター)が見える。この日は、メンバー3人へのインタヴューも行っており、その話はジャズライフ2003年3月号に掲載されたが、ここではその中からちょっとだけ。

僕はピアノの前におとなしく座って静かにプレイしようと努力している
一一エスビョルン、あなたは演奏中によく身体を動かしますね。それに声も出す。これは、自分のプレイを高めたい、もっと表現したいという意識の表れですか?
エスビョルン・スヴェンソン(以下ES):ノーノー。僕はピアノの前におとなしく座って静かにプレイしようと努力しているんだ。演奏中に身体を動かすのは好きだし、特に問題もないけれど、困るのはピアノに合わせて声高らかに歌い出した時だね。(隣でダンがフフフと低く笑う)
一一新作(当時)の『ストレンジ・プレイス・フォー・スノウ』でも1曲目から歌ってますね(笑)。
ES:うん、(声が)聞こえるね。これまでにも僕は、声を出すのを止めようと努力してきた。でも演奏中に音楽の中に入り込んで行くと自然に声が出ちゃうんだ。今では、これは僕の音楽の一部分だと思っている。でも、実は、なんとか声を出さないようにとトライしているんだよ。
一一キース・ジャレットのファンでも「あの声はちょっと……」という人はいますからね。
ES:僕はキースみたいに大きな声は出さないと思うけど……、いや、そう願いたいね(笑)。
一一ステージではPODを使っていますが、あれはギター用のものですか?
ES:そうだよ。
一一どんなエフェクト音をよく使いますか。たとえばフランジャーとか?
ES:ちょっとわからない。「このエフェクトは何?」なんて考えたことないんだ。ガチャガチャ(エフェクターのツマミを回すふり)ってやって「おっ、この音良いぞ!」って、ただそれだけさ(笑)。

・・・
2003年10月22日にフランクフルト郊外の街で行ったインタヴューの記事(ジャズライフ2004年2月号に掲載)の一部が鯉沼ミュージックのサイトにアップされています。

◆追記:
エスビョルン・スヴェンソンは、2008年6月14日にスキューバダイビング中の事故により44歳で他界しました。筆者が行ったエスビョルンへのインタヴューの中で彼自身が語ってくれた“死後の世界”についての言葉(肉声録音)を筆者のメイン・サイトで公開しています。詳しくはエスビョルン・スヴェンソンの声(当サイト内の記事)をご覧下さい。


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by ReijiMaruyama | 2008-02-29 23:51 | Musician / Interview