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 パット・メセニーが、新作アルバム『オーケストリオン』を制作したと聞き、そのプロジェクトの詳しい内容を知った時はびっくり仰天した。それは、生のアコースティック楽器をいくつも組み込んだ自動楽器演奏装置“オーケストリオン”を、メセニーが、たったひとりで、ギターやフット・ペダルなどを使ってコマンドを出しながら、リアルタイムで鳴らして曲を演奏するというもの。楽器を鳴らすために必要な物理的な力は、電磁力(ソレノイド・パワー)や空気力学を応用して作り出しているそうだ。

 今回は、2010年2月から3月にかけて行われたパット・メセニー・オーケストリオン・ヨーロッパ・ツアーから、3月6日にドイツのケルンで行われたコンサートの模様と、それを観て感じた事などを写真と共に紹介する。ちなみに、このケルン・コンサートについては、すでにジャズライフ5月号で詳しく報告してあるので、ここではその記事の中に書ききれなかったことを中心にお伝えしたいと思う。
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Pat Metheny Orchestrion Tour in Europe
at Kölner Philharmonie, Cologne, Germany on March 06, 2010
2010年3月6日、ドイツ・ケルン/ケルナー・フィルハーモニーにて

究極のメセニー・ミュージック
 メセニーのこのプロジェクトに対して賛否両論がある。「素晴らしい!」という絶賛に対峙する言葉は、サーカス、大道芸人、チンドン屋……。そんな極端なことを言う人は少数派かもしれないが、たしかに存在する。言論の自由があるので何を言おうとかまわないし、ひとりひとりが自分の好き嫌いで判断すれば良いことだが、ひとつだけはっきりと言える事は、「パット・メセニーのオーケストリオン・プロジェクトは、お遊びや気まぐれでやるには、金と時間、そしてメセニー本人や彼のスタッフの労力も、すべてが膨大すぎる」ということ。「バンドでやっていることとあまり変わらない。なにもこれを機械にやらせなくても……」、と言うもっともな意見(?)もある。しかし、ミュージシャンがやりたいことをやらなく(やれなく)なったら死んだも同然。その意味でパット・メセニーは、まさにいま生き生きと活動している“しあわせな音楽家”だと言える。

 メセニーの音楽は不変だ。それは、これから何年経ってもまず変わることはないだろう。そして、このオーケストリオン・プロジェクトも、まぎれもない“パット・メセニーの音楽”である。良いか悪いか好みの問題はさておいて、これほど大胆で野心的なことをジョークにしないで(これ重要!)、やり遂げることの出来るミュージシャンがいまこの世の中でメセニーの他に存在するだろうか。このプロジェクトでメセニーが目指したものは、「自分の音楽を、オーケストリオンを使って、自分の思い通りに、自分ひとりでその場で演奏すること」である。オーケストリオンは、メセニーのコマンドに対して、“何の思わくも入れず”忠実に従う。これこそ“究極のメセニー・ミュージック”ではないか。
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自動楽器演奏装置オーケストリオン
 オーケストリオンは、いまから100年も前にビッグ・ビジネスとしてレストランやバーなどでもてはやされたものだという。ドイツのライプツィヒが発祥の地であるらしい。だがその後、録音技術の進歩と共に姿を消した。いまではコンピュータで完璧な音楽を作ることも出来るが、メセニーのオーケストリオンは、そういうシンセサイザーやシーケンサーを使ってあらかじめ準備しておいた音源ループを鳴らすものとは異なり、ひと昔前のオーケストリオンに現代のテクノロジーを付け加えて、複数の“生きたアコースティック楽器”を同時に鳴らす自動楽器演奏装置である。凝り性のメセニーらしいアイデアだ。
 メセニーと彼のスタッフが4年の歳月をかけて作り上げたというこのオーケストリオン・システムには、ドラムやシンバル、コンガ、マリンバ、ヴァイブラフォン、ピアノ、オーケストラ・チャイム、アコースティック・ギター、エレクトリック・ベース、ギターボット、それにカスタネットやトライアングル、カウベル、シェーカーなどのパーカッション類、さらには水が入った大きさの異なるガラスの瓶を鳴らす装置など、いくつものアナログ楽器が組み込まれている。そして、それらがひとつの大きな機械仕掛けとなり、メセニーの操作のもと、メセニーと一緒に音楽を奏でる。ドラムとシンバルは、ジャック・ディジョネットの使用モデルで、ヴァイブラフォンとマリンバのマレットは、ゲイリー・バートン御用達のものを使っているそうだ。機械仕掛けの中にも人間の個性を付け加えたいという気持ちがうかがえる。“幽霊バンド”と言うなかれ。しかし、「これはもうほとんど病気!?」(あるフォトグラファー)と言いたくなるのもわかる。「天才と変人は紙一重」とはまさにこのことか。

 小さな箱に入れられたオルゴールが奏でるメロディには、電気的に作られたものとは一線を画する情緒がある。乱暴な言い方をすると、そのオルゴールのサイズを大きくして楽器の種類を増やしたものがオーケストリオン。ただし、メセニーのオーケストリオンは、メセニーが、ギターや手元足元の装置(インターフェース)を使って、リアルタイムで各楽器の演奏のニュアンスまで変えることが出来るものである。「楽器の数だけパット・メセニーがそこにいる」、そう考えるとワクワクしませんか? 極論すれば(真偽のほどは本人以外にはわからないが)、メセニーが思った通りに即興演奏することが自分のバンド(たとえばPMG)以上に可能であるのかもしれない。

 すべてが問題なく作動すれば……。

ドイツ・ケルンで観たパット・メセニーの前代未聞の独演会
 去る3月6日にケルンで行われたパット・メセニーのオーケストリオン・コンサートは、メセニーのアコースティック独奏3曲に続き、オーケストリオンを使って、メセニーの新作に収録されていた新曲5曲が一気にプレイされ、その後もオーケストリオンのデモンストレーションを兼ねた3つの即興演奏を織り交ぜながら、PMGのこれまでのアルバムの中から4曲(アンコールを含む)が披露された。その全15曲・2時間30分の充実したステージに、会場に詰めかけた満員の観客も盛大な拍手を送り続けていた。が……、

オーケストリオンのシステムに大トラブルがあった!!!

 まず、開演前にオーケストリオンのインターフェースにトラブルがあり、復旧のために開演時間が30分遅れた。そして、これはうかつにも観ていて気がつかずあとでわかったことだが、コンサートの途中(オーケストリオンを使いはじめて2曲目)に、ステージの右と左に置かれていたギターボットのうち左の1台がパンク! その時、ギターボットから煙が出たため(!?)、メセニーがすぐにその1台だけシャットダウンしたらしい。さらに、その後も開演前と同じ問題がまた生じたため(これも気がつかなかった)、本来は2時間半休憩なしで行うコンサートを途中で20分ほど中断して、その間にフット・ペダルを予備のものに入れ替えてシステムをリセットするという復旧作業が行われた。
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コンサートの冒頭で、カナダの女性ギター・ルシアー、リンダ・マンザーが製作したナイロン弦ギターとバリトン・ギター、42弦ピカソ・ギター(写真)の3台を使って3曲の美しい独奏を披露。
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アイバニーズの丸いシングル・カッタウェイでホロウ・ボディのギターに持ち替え、フィンガー・シンバルのパルスをバックにしばし即興プレイを観せたあと、そのフィンガー・シンバルを観客にアピール。この小さなリズムボックスは、壮大なオーケストリオン・システムに組み込まれた楽器の中でも、メセニーの最良の友と言えるものらしい。メセニーの後方にあるオーケストリオンの楽器群は、まだカーテンで覆われている。この直後にカーテンが開いてオーケストリオンが全貌を現した。

まるで生き物のようなオーケストリオン・システム
 メセニーは、人間のミュージシャンを見るようなまなざしを各楽器に向けながらプレイし、MCの時も楽器たちを「彼ら(these guys)」とか「みんな(everybody)」などと言って、オーケストリオンに対してかなりの愛情を込めているという印象を与えてくれた。オーケストリオンの演奏は、想像していた以上に有機的で手作りの感じが伝わってくるもので、全体的に見て非常に好感が持てた。ただし、あえて言わせてもらうと、各楽器の演奏のダイナミクスには多少の物足りなさを感じる部分もあった。また、“メセニーほどの音楽家のレベル”で量るならば、この日の出来は「及第点」だったかもしれない。本人としても「もっとうまく行くはず」だったのではないだろうか。システム・トラブルのことではない。いや、それと関係があったのかもしれないが、曲のエンディングで、メセニーのギターとオーケストリオンの演奏がぴたりと同期せずタイミングがずれてしまったことがあった。そういうところは、まだなんとなく“あやうい”感じがする。もっとも、そのあやうさがあるおかげで(完璧を目指すメセニーに対しては失礼な言い方かもしれないが)、オーケストリオンが、まるで生き物のようにかわいらしく見えてくるのではある。
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右手前の細長い鉄の板を縦に4つ並べたような姿をしたものが「ヒュンヒュン」という音を出すギターボット。ギター・スタンドに立てかけてあるアコースティック・ギターは、イタリア・ボローニャのギター・ルシアー、ジャンカルロ・スタンザーニとその息子ルカが製作したスタンザーニ・ソレノイド・ギター(文末のリンク集参照)。コンサート中盤にメセニーは、このギターを“手と足で”弾いた。これはイタリア人のギタリスト、パオロ・アンジェリ(Paolo Angeli/リンク集)のプレイにインスパイアされたものらしい。
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もう1本のアイバニーズのギター、パット・メセニー・モデルPM120は、オーケストリオンがどのように動くかを即興演奏によって観客に披露したときに使用された。
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おなじみのRoland Guitar Synthesizer G-303も登場。
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アンコール曲「メキシコの夢」では、ギルドのアコースティック・ギターも使用。
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オーケストリオンの各楽器は、音を鳴らすと同時に光も放つ。ビジュアル面での演出も忘れていない。


 大トラブルを克服して行われたパット・メセニーのオーケストリオン・ケルン・コンサート。最後は、オーディエンスが総立ちでスタンディング・オヴェーションを送り続けるなか、メセニーも満足げな笑顔を浮かべてステージをあとにした。すでに書いたが、このライヴの詳しい報告はジャズライフ5月号に掲載されている。そのカラー6ページの記事の中には、コンサートの様子の他に、メセニーがこの日に使用した合計8台のギターに関することや、オーケストリオン・プロジェクトのサウンド・ディレクター、デイヴィッド・オークスへのインタヴューも含まれている。ジャズライフのバックナンバーは、ネットでも最寄りの書店でも超カンタンに入手可能なので、メセニー・ファンの方は、ぜひ「パット・メセニー・オーケストリオン・プロジェクトの記念(?)」に、ジャズライフ5月号を購入して、同2月号(こちらには常磐武彦氏がニューヨークで取材したオーケストリオンの記事が掲載されている)とともに永久保存していただきたい。

 さて、ここで、ケルン・コンサートのあとでオークス氏が語ってくれた言葉の中から、ジャズライフの原稿で割愛した部分を紹介しておこう。

筆者:あなたは、オーケストリオン・システムの構築に大変な労力をつぎ込んだというわけですね。
オークス氏:今回に限らず、僕はパットのアイデアを現実のものとするためにつねに努力している。僕は、29年間パットと共に仕事をしてきているので、何を望んでいるのか、彼のひと言を聞いてすぐに理解出来るよ。
筆者:「一を聞いて十を知る」という感じですか?
オークス氏:パットは、自分が望むものをいつもはっきりと把握している。あまり細かい説明を聞かなくてもパットの言いたいことはわかるよ。たとえばパットは、「もっとビッグなサウンドで、リズム楽器の限界を超えるようなものにしたい」とか「5ウェイのステレオ・サウンドがほしい」なんて言い方をする。そのアイデアをどのような方法を用いて実現するか、そんなことパットはまったく気にしない(メセニーは何に対してもオープンである、という意味)。
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David Oakes

オーケストリオン・プロジェクトの衝撃
 こんなとっぴなアイデアを現実のものとし、その複雑なシステムによる大掛かりなショーまでも可能にして実行してしまうパット・メセニーと彼のスタッフの知恵と勇気とパワーには脱帽するしかない。オークス氏は、オーケストリオン・システムの設計およびステージ上のレイアウト、管理、さらにはコンサート会場のPA卓の操作に至るまで、メセニー・サウンドを支える重要な部分をいくつも手がけている。その彼が「オーケストリオンは、まだまだ発展途上のまっただ中にある」と語っていた。あれから3ヶ月。6月に行われる日本公演では、さらなる改良が加えられて安定感を増したオーケストリオンの演奏が披露されることになるだろう。見世物小屋に足を運ぶようなつもりでコンサート会場へ向かう人がいたとしても、そこで待っているものは、まぎれもない究極のメセニー・ミュージック・ワールドである。「見逃さずにすんで良かった!」と思うに違いない。耳で聴いて、目で見て楽しいそのコンサートには、性能の良いオペラグラスを持参することをオススメする。
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あとがき
 この夏、オランダ・ロッテルダムで3日間開催されるノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルの初日7月9日に、パット・メセニー・グループ(PMG)が出演する。メンバーは、メセニー以下、ライル・メイズ(p,kb)、スティーヴ・ロドビー(b)、アントニオ・サンチェス(ds)というPMGの核をなす4人だ。これは、「The Song Book Tour」と銘打たれたPMGヨーロッパ・ツアーの一環で、クアルテット編成のPMGが、6月末から約1ヶ月間に渡って、いつものようにほとんど休みなしでヨーロッパ各国を興行する。メセニーが、オーケストリオン・ツアーの直後にこんなスケジュールを持ってきたのは、オーケストリオンに対して嫉妬心を抱いたかもしれないPMGのメンバーを気づかっての事だろうか。一流ミュージシャンとはいえ、みんな人間だ。ちなみに、オーケストリオン・プロジェクトは、ヨーロッパを皮切りにアメリカ~韓国・日本を回る大規模なワールド・ツアーを行い、どこも大盛況。それを受けて今秋も引き続きアメリカ各地でコンサートの予定が組まれている。まだまだオーケストリオンの快進撃が続きそうな気配だが、PMGが今後どのような展開を見せるのか、ファンとしては、そちらも気になるところではあろう。
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メセニーがオーケストリオン・プロジェクトでメインに使用するのは、アイバニーズUSAのPM35のプロトタイプとなったギター。
【追記:PM35は、その後モデル変更があり、2013年現在ではPM200とPM2の2機種が発売されている】

リンク集:
●パット・メセニー Pat Metheny official site
●リンダ・マンザー・ギターズ Linda Manzer Guitars
●スタンザーニ・ソレノイド・ギター Liuteria Stanzani
●パオロ・アンジェリ Paolo Angeli official site
●アイバニーズ・ギター・パット・メセニー・モデル PM120 PM200/PM2
●常磐武彦(写真家/音楽ジャーナリスト) Orchestrion Photo Gallery
●ジャズライフ www.jazzlife.co.jp

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by reijimaruyama | 2010-05-30 23:55 | Musician / Interview

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 ヤン・ガルバレク(ts,ss)は、ノルウェーのジャズ・ミュージシャンの最高峰にして孤高のサックス奏者である。他の誰も出し得ない透明感あふれる音色と美しいメロディを奏でることで知られ、演奏スタイルは耽美的で禁欲的と言われる。だが、ガルバレクが2009年10月に発売した2枚組ライヴ・アルバム『ドレスデン』(ECM)を聴いてみると、そんな堅苦しいイメージとはまた別の万人受けする音楽性があることにも気がつく。その新作リリースに合わせてドイツ国内をツアー中のガルバレクが、2009年11月10日、レヴァークーセンのジャズ祭、レヴァークーゼナー・ジャズターゲ(文末のリンク集参照)に出演した。
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Jan Garbarek Group
Live at 30. Leverkusener Jazztage on November 10, 2009

ヤン・ガルバレク・グループ:メンバーは、写真左からライナー・ブリューニングハウス(p,kb)、ユリ・ダニエル(b)、ヤン・ガルバレク(ts,ss,selje flute)、トリロク・グルトゥ(perc) <本記事の写真はすべて取材当日2009年11月10日撮影>

 ライヴ前に行われたガルバレク・グループのサウンド・チェック。モニター音量のバランス調整の問題で鍵盤奏者ブリューニングハウスとパーカッションのグルトゥがしばしディスカッションする場面があった。その間、ステージの中央に立つガルバレクは、黙って事の成り行きを見守りながら解決策をふたりの判断にゆだねていた。この時、「ガルバレクは無口で自制的」という印象を受けた筆者は、音合わせ終了後、ガルバレクの人柄についてユリ・ダニエルに聞いてみた。すると、図らずも彼の口からは次のようなコメントが返ってきた。「ヤンは、とてももの静かで、いつもしっかりと自分をコントロールしている。それなのに、バンドのメンバーや周りの人々を自然とひとつにまとめていくから驚きだ。そんなヤンの人柄は、彼の音楽にそのまま表れている。ヤンは、音楽に対するはっきりとしたビジョンを頭の中でつねに描いている。オーケストレーションに関しては、エバーハルト(下記注参照)の力が大きかったと思うけど、ヤンのアイデアが土台となっていたことは疑いの余地がない」。

(注)エバーハルト・ウェーバーは、1940年1月22日、ドイツ・シュトゥットガルト生まれのベーシスト。70年代からECMサウンドを代表するミュージシャンのひとりとしてリーダー・アルバムを数多く発表し、ゲイリー・バートン、ラルフ・タウナー、パット・メセニー、ヴォルフガング・ダウナー、ケイト・ブッシュ他のアルバムなどにも参加。ヤン・ガルバレクとは約30年間に渡って活動を共にしてガルバレクの音楽を支えてきた。だが、2007年初頭に病気(脳卒中)で演奏不可能となりガルバレクのグループを脱退、急きょユリ・ダニエルが後任を務める事になった。
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「エバーハルト・ウェーバーの大ファンで、それが高じてベースを弾きはじめた。だから、いつかヤン(・ガルバレク)と共演したいとずっと思っていた。ヤンのツアーでは、エレクトリック・ベース(ワーウィックの5弦フレットレス)を使っているけど、本当はウッド・ベースが僕のメインなんだ」というブラジル出身のユリ・ダニエル。現在はポルトガルに住んでいる。
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ガルバレクのグループで20年以上プレイしているドイツ人の鍵盤奏者、ライナー・ブリューニングハウス。キーボードを多用してサンプル音やループなどでガルバレクの音世界をサポートしていた。ライヴ中盤で観せた独奏ピアノ・ソロは、キラキラとした美しさと壮大な力強さを持った迫力あるプレイで聴衆から大喝采を浴びた。
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バスドラとスネア、ハイハットなどにタブラやジャンベ、シェイカー、様々な形のシンバルやベルなどの金物を数多く組み合わせて強力なドラム&パーカッション・セットを構築し、ドラマーともパーカッショニストとも言いがたいアプローチを観せていたインド人、トリロク・グルトゥ。以前は地べたに座っていろいろな種類の打楽器を鳴らしていたが、今回はドラム用のイスに座ってプレイしていた。水入りのバケツを叩いたり、その水にゴングやチャイムを浸しながら鳴らすなど、独特の世界を創りだしてガルバレクの音楽に色を添えていた。
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ジャズターゲの模様は、毎年、地元ケルンのテレビ局WDRが録画放映している。

無口のガルバレクはインタヴューがお嫌い?
 1947年3月4日、ノルウェー・ミーセン生まれのヤン・ガルバレク。この孤高のサックス奏者は、ツアー中の取材を一切受け付けておらず、レヴァークーセンでもテレビ局のインタヴューを断っていた。筆者もガルバレク本人と話すことは出来なかったが、彼のマネージャーの計らいで、ガルバレクが一部のプレス向けに特別に制作したインタヴューCDを入手することが出来た。その中身は、こちらが聞きたかった質問に対する答えが満載のとても充実した内容! 自己名義でのライヴ盤を出すのがいまになってしまった理由や、ライヴのセット・リストのこと、クアルテットというバンド・フォーマットについて、マヌ・カッチェ(ds/ライヴ盤が録音されたツアーに参加)とトリロク・グルトゥ(今回のツアーに参加)というふたりの打楽器奏者から受ける影響、自分の作曲方法や即興についてなど、11の質問に対して、思慮深い言葉でとてもはっきりと丁寧に答えている(質問者の名前は不明)。それを聞くと、ガルバレクは、決してインタヴュー嫌いという訳ではなく、ツアー中は演奏に集中したいだけなんだろうと思えてくる。それらの言葉を盛り込んだ記事は、ジャズライフ2010年1月号に掲載された。最近ではあまり聞く事の出来ないヤン・ガルバレクの貴重な発言が詰まっているので、特にガルバレク・ファンの方たちにはぜひ読んでいただきたい。ちなみに、その号では、開催30回目を迎えて大いに賑わったジャズターゲの模様(ガルバレク以外にもマーカス・ミラーやアル・ディメオラ、リー・リトナー、キャンディ・ダルファー他の人気アーティストが数多く出演)も巻頭カラーで大きく取り上げられている。バックナンバーもいまならまだ簡単に手に入るので、どうぞよろしく。
 さて、話がちょっと横道にそれてしまったが、ここで、そのジャズライフの原稿に書ききれなかった3つの質問に対するガルバレクの言葉を紹介してみたい。

自分の音楽をジャズであると考えるか?
 「私にとってジャズとは、ルイ・アームストロングにはじまり1960年から65年頃までの間に完結したものだ。それ以降のすべてのものは、私がジャズと呼ぶものとは別領域にある。アームストロング、エリントン、オスカー・ピーターソン、ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードンがジャズ。初期のマイルスとコルトレーンもジャズと呼べるが、のちに彼らは私が考えるジャズの範疇から飛び出した。どこまでがジャズなのか? それは聴く人の定義、カテゴライズの仕方によって異なる。だが、リズムのあるインストゥルメンタル・ミュージックをすべてジャズと呼ぶのは無意味だ。それでは言葉の水増しだ。私は、自分の音楽をジャズという言葉では……、いや、ジャズであるとは考えていない。ジャズのリスナーとして、またその演奏者としての私の長い歴史が、私の音楽にジャズの要素を持ち込んでいることは間違いないだろう。だが、多少は異なったものになっているんじゃないかな。それを何と呼ぶのか、名前のようなものを見つける必要なんてない、ということを私は幸運に思うよ」。

音楽をはじめたきっかけ
 「12か13歳の頃、エルビス(・プレスリー)などのレコードにあわせて女の子と一緒に踊るのは楽しいと思ったけれど、音楽そのものにはまったく魅力を感じなかった。でもラジオでジョン・コルトレーンを聴いてすべてが変わった。あれは私の人生でとても重大な出来事だ。ある日、戸外で友達と遊んでいた私は、いつの間にか夕方になって周りが暗くなってきたので家に入った。すると音楽が聴こえた。その時、とても特別な何かに引きつけられたんだ。曲が終わると司会者が「これで今週の“ジャズ・アワー”を終了します」と言ったので、その音楽がジャズだと知った。その番組はコルトレーンの新しいアルバム『ジャイアント・ステップス』(1960年)の曲を放送していたらしくて、私が聴いたのは「カウントダウン」だった。すぐに私はアルバムを手に入れて、それ以来毎朝学校へ行く前に朝食を食べながら聴いた。毎日、何年間も聴き続けたよ。当然のごとく、私は両親にサックスが欲しいとせがんで困らせた。半年ほどして、ついにクリスマスにサックスを手に入れた。でもそれはとても古くて状態の悪い楽器だった(笑)。パッドを取り替えるために2週間ぐらいオーバーホールに出す必要があったが、私はその間にサックスの教則本を見ながら毎日フィンガリングを学び、サックスが戻ってきた時にはある程度の曲ならすぐに吹けるようになっていた。これがその後のやる気を推進する結果につながったんだ」。

これまで40年間、音楽制作活動を共に行ってきたドイツのレコード・レーベル、ECMのオーナー兼プロデューサー、マンフレート・アイヒャーとの出会いについて
 「ミュージシャンとしての私の人生において、ECMは、とても大きな意味を持つ。マンフレートと知り合うきっかけをもたらしてくれたのは、ジョージ・ラッセル(composer)だ。当時(1969年末頃)、私は、ラッセルのセクステットのメンバーとしてイタリアをツアー中で、イタリア北部のあるジャズ・フェスティヴァルに出演した。そこでマンフレートを紹介され、彼が新しいレーベルを立ち上げたばかりだと聞いたので、自分の演奏を収めたテープがあるのでそれをリリースする気はないかとこちらから持ちかけた。でも、彼はその私のオファーを断った。マンフレートは、自分の手によるレコーディング・テープを作ることを望んでいたんだ。「電話はしてこなくていい。こちらから連絡するよ」という彼の言葉を聞いた時、私は正直言ってもう連絡はないだろうと思った。ところが、それから半年ほどのちにマンフレートから手紙が来た。彼がオスロに来るので、私にバンドを結成して曲を準備して録音スタジオを押さえるように、と書いてあった。ミュンヘンから列車に乗ってやってきたマンフレートは、ダウンタウンであまり値段が高くないホテルを予約してくれと言う。私は彼のために宿を押さえた。想像してみてほしい。それは、“赤線地帯”にあるような、安いというよりもむしろひどいというべきホテルだった。そして、帰りも列車。彼は、とても大切なテープを膝に乗せて、ミュンヘンまで丸1日かかったんじゃないかな。すごい話だろう。(そのレコーディングは)彼にとってそれだけの値打ちがある投資のようなものだったんだろうね(笑)。これがECMに吹き込んだ私の最初のアルバム(『アフリック・ペッパーバード』1970年)で、国際的に良い評判を得て成功したのですぐに2枚目も作った。その関係がいまでも続いているという訳だ。すべてはジョージ・ラッセルとイタリアで行ったギグからはじまったのさ(笑)」。
---以上、先述のガルバレクのインタヴューCDより---

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「まるでバットマンのコミックに登場する悪役ジョーカーみたいな顔」とは、ケルンの新聞社の女性フォトグラファーの言葉。ガルバレクのサックスが奏でる美しい音色の秘密は彼の口元・アンブシュアにあるのか?
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ガルバレクの使用サックス:テナーは、青いロゴ入りのセルマー・マークⅥ。ソプラノは、ガルバレクのトレードマークにもなっているカーヴド・ソプラノ。レヴァークーセンのライヴでは、その2本をほぼ半々に使用していた。サックスのリードにかなり神経を使っている様子で、筆者が確認しただけでもサウンドチェックの時にソプラノのリードを2回、本番ライヴ中は、ソプラノとテナーのリードをそれぞれ1回づつ交換していた。また、指穴のないセリエ・フルート(ノルウエーの民族楽器)を使って、グルトゥのボイスパーカッションと掛け合いながらリズミカルな即興も披露した。
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その他の使用機材:レヴァークーセンのステージでは、アップル(Mac)のノートブックコンピューターとRME Fireface 400(高性能マイクプリアンプを備えたオーディオインターフェイス)も使っていた。Mac内に仕込んだエフェクトを使用しているのではないかと想像するが確証はない。これらのハイエンド機器をどのように使っているのか、プラグの差し込み方やMacのディスプレイに映ったアプリケーションを見てお分かりの方がいたら教えていただきたい。サックスの音を拾ったマイクの信号は、RMEとMacを経由したのち、ガルバレクの足元に置かれたBossヴォリューム・ペダルFV-50Hへと送られていた。これでエフェクト(あるいは全ての信号)の音量をコントロールしているのだろうか?
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コンサート終了直後のオーディエンス。やはり、と言うべきか、この日集まったファンの年齢層は高めだった。ジャズターゲのメイン会場フォーラムの天井には、音響を考慮して逆ピラミッド型のエレメントがいくつも取り付けられている。

最後に……
 ガルバレクは、このレヴァークーセンでのライヴの後、去る3月までドイツ国内31カ所をツアーした。そして、この2010年の年末も引き続きグルトゥを加えた自己のグループ(クアルテット)でスイスやハンガリーを演奏旅行するが、そのスケジュールの谷間となる9月と10月には、ヒリヤード・アンサンブルとの共演ツアーも行う。これは、今年、ECMから発売されることになっているガルバレクのヒリヤード・アンサンブルとの共演アルバム『Officium Novum』のお披露目興行で、ドイツやオーストリア、チェコ、イギリス、スイスなどを巡業することになっている。
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この記事関連のリンク集:
Jan Garbarek Group (ツアー・インフォメーション)
レヴァークーゼナー・ジャズターゲに関する記事(本サイトの第15回)
Leverkusener Jazztage website(ドイツ語)
ECMレコード
ジャズライフ

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by reijimaruyama | 2010-05-06 22:02 | Musician / Interview

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 2008年6月14日にスキューバダイビング中の事故により44歳でこの世を去ったスウェーデンのピアニスト、エスビョルン・スヴェンソンの訃報に接した時は、特別な感情を抱いた。その理由は、筆者がそれまでに行ったエスビョルンへのインタヴューの会話の中で未発表となっていた“ある部分”をふと思い出したからである。すぐにこのサイトで紹介することを考えたが、その時はそのままにしておいた。エスビョルンが語った「人生とスピリチュアル・ワールド(あの世)に関する話」は、彼が他界した直後では、あまりにもタイムリーすぎて公表する気になれなかったのだ。しかし、エスビョルンの死後1年半を過ぎたころになって、あの部分は“本人の生の声”で紹介したいと思いはじめた。そしてやっと今回、5分弱にまとめたエスビョルンの言葉をマイスペース・サイトにアップすることができた。前回のジョー・ザヴィヌルの声と同様に、日本語訳もマイスペース・ブログの方で紹介している。

エスビョルン・スヴェンソンの声 日本語抄訳 >>
*リンクをメイン・サイト内に変更しました。


第3回:エスビョルン・スヴェンソン(当サイト内記事)
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by reijimaruyama | 2010-02-23 17:23 | Information

ジョー・ザヴィヌルの声

マイスペースでミュージシャンの生の声を紹介
 これまでいろいろなミュージシャンへのインタヴューを行い、その記事を雑誌やこのサイトなどで紹介しているが、“彼らの生の声”をみなさんと分かち合いたいと思うことが時々ある。ミュージシャンも人の子だ。本人のその日の体調などにも左右されると思うが、何でも気さくに語ってくれる人もいれば、気難しい感じで取材がスムースに進まないこともある。筆者は、特別なケースをのぞいて、それらの会話をテープやMDなどに録音しているが、あとでそれを聞きながら日本語の文字に起こす際に、新ためていろいろと考えさせられたり、思わずニヤリ、さらには大笑いしてしまうこともある。ミュージシャンたちが演奏する楽器の音や歌声は、コンサートやCDなどで聴くことが出来るが、「普段はどんな声でどんな風にしゃべるんだろう?」と興味を抱く方もいるのではないだろうか。
 ということで、これまでに取材で録りためたミュージシャンの生の声を、ほんの一部ごくわずかではあるが、今回新たに立ち上げた筆者のマイスペース・サイトで紹介することにした。
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 どの程度のことが出来るのか、やってみないとわからない。このページに新しい記事を投稿するだけでもかなり長い期間を要しているので、“亀のペース”どころではなく“ナマケモノ”のようにじっと動かないことがあるかもしれないが、マイ(ス)ペースで紹介して行きたいと考えている。

 まず手はじめに、本サイトの第14回でも紹介した天才キーボーダー、ジョー・ザヴィヌルの声をアップしてみた。ザヴィヌルが筆者に語ってくれた言葉の中から、自身の即興スタイル、機材トラブル、パコ・セリー、ジャコ・パストリアス、ウェイン・ショーターなどについてのコメントを3分弱にまとめてある。興味のある方は、筆者のマイスペース・プロフィール(下記のリンク)で表示されるミュージックプレーヤーの再生ボタンをクリックしていただきたい。英語が苦手な方のために、インタヴューの前日に行われたザヴィヌルのライヴのエピソードなども多少書き加えた日本語の抄訳をマイスペースのブログにアップしてある。

ジョー・ザヴィヌルの声 日本語抄訳
*リンクをメイン・サイト内に変更しました。

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by reijimaruyama | 2009-12-13 16:20 | Information

 2009年5月15日。デュッセルドルフから車で東へ40分程走ったところにあるヴッパータール市でジョニー・ウィンターのコンサートが行われ、筆者はそのライヴの前にジョニーにインタヴューした。永遠のブルースマンは、彼のバンドのメンバーやスタッフらと共にバック・ステージ裏に停めてあるキャンピング・バスの中にいた。
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Johnny Winter 取材当日撮影

 この日は、筆者の前にドイツの新聞社(Westdeutshe Zeitung)もジョニーへのインタヴューを行った。車内の後方で自分の番を待つこちらの耳に聞こえてきたのは、「これまでのあなたの音楽キャリアの中でどの時代が一番良かったと思いますか?」という質問。それに答えるジョニーの声はとても小さくて聞き取れない。質問者の声も次第に小さくなり、そのあとにジョニーの短い答え、そして沈黙……、そんなことを数回繰り返しただろうか、「私の質問はこれで全部です」という声が聞こえてそのインタヴューはあっという間に終わった。記者に同行した女性フォトグラファーが無表情のギタリストのポートレートを手早くカメラに収めると、2人はそそくさとバスをあとにした。

 自分の番が来た。「ミスター・ジョン・ドーソン・ウィンター3世、お会いできて光栄です」。そう言いながら右手を差し出すと、ジョニーは、「オー、イエス」と答えて、力は入っていないがとても温かい手を返してくれた。奥行き50センチほどのテーブルを挟んで向き合って座る黒いTシャツ姿のブルースマンの肌はとても白く、細い二の腕にはタトゥーがあり、ほおには毛細血管が紫色ににじみでている。透き通るようなプラチナ・ブロンドの髪の毛が肩の下まで伸びていて眉やまつげも黄金色。右目はほとんどふさいだままで、こちらを見る左目の瞳はちょっとピンクがかった銀灰色。座っているので見た目で背丈を計ることが出来ないが、思っていたよりもとても小さい感じで、第一印象は、かなり年老いた老人のような雰囲気だ。しかし、顔にはしわがなく、その表情には少年のような素朴さもうかがえる。1944年2月23日生まれのジョニー・ウィンター、この時は65歳と2ヶ月である。

 自己紹介のあと、インタヴュー中の会話を録音しても良いかどうかを問うとOKが出たので、バッグからMDレコーダーを取り出してテーブルの上にミニ・マイクを置いた。ジョニーは、バンドのセカンド・ギタリストでツアー・マネージャーも兼任するポール・ネルソンに「きょうは一体いくつインタヴューをやるんだ?」と聞く。ポールは、「10件だよ」と答えて、ジョニーがうんざりした表情を見せると筆者を指差して「でも彼が最後の10人目だ」とジョークを飛ばす。2004年にジョニーが発表した彼の最新(!)アルバム『永遠のブルースマン』(原題:I'm a Bluesman)にも参加してギターを弾いたポールは、もう何年も行動を共にするバンド・リーダーのことを良く理解している様子で、インタヴューの間は、口数の少ない主役の横に座って少しでも会話を盛り上げようと助け舟を出したりもするのだ。テーブルの上のマイクのすぐ前にウィンターの右手がある。彼の指は、音もなく、しかしせわしなくテーブルをタップしている。
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伝説のブルースマンへのインタヴュー Interview with Johnny Winter
――あなたの様子を日本のファンに紹介したいと思ってやって来ました。お時間をいただき感謝いたします。ありがとうございます。
ジョニー・ウィンター(以下JW):君のその言い方、まるで日本人じゃないみたいだ。
――純粋な日本人ですよ。さっそくですが、あなたはまだ日本で演奏した事がありませんね。なぜですか?
JW:その訳を話してもいいのかな……(と、隣に座るポールを見た)。
――本当のことを聞かせてください。
JW:僕はメタドンを使っている。でも、日本でそれは許されていない(メタドンは日本では未販売の医療用合成鎮痛薬)。だから、日本へは、これまで行ったことがないし今後も行くことはないだろう。
【追記:本人のこの言葉とは裏腹に2011年4月に初来日が実現した!】
――60年代後半に“100万ドルのギタリスト”の伝説を一夜にして作り上げ、その後、数多くの素晴らしいアルバムを制作して87年にはグラミー賞も受賞したあなたの影響を多大に受けているギタリストが大勢います。いまご自分のギター人生を振り返ってみてどう思いますか?
JW:自分はとても幸せだ、と感じているよ。
――いま65歳ですが、あと何年ぐらいツアー活動を続けたいと思いますか?
JW:ずっとギターを弾き続けるつもりでいる。健康でいる間は、出来る限り長くね。
ポール・ネルソン(以下PN):ジョニーは、最近も素晴らしいショーをいくつもやったんだ。エリック・クラプトンのクロスロード・フェスティヴァルに出演したり、オールマン・ブラザーズのアニヴァーサリー・コンサート(オールマンズのバンド結成40周年記念ライヴ)でも演奏したんだよ。
――それは素晴らしいですね。ところで、あなたは子どもの頃クラリネットを吹いていたそうですが、なんでも歯の噛み合わせの問題であきらめたとか。
JW:そう、僕の歯はクラリネット向きじゃなかったんだ(笑)。でもそれは僕にとってすごくラッキーなことだった。今ではクラリネット奏者にならなくて本当に良かったと心から思っている。ギターを弾くことができてとてもハッピーだよ。

ブルースの魅力 B.B.キングとの出会い
――ギターを弾きはじめた頃は、ブルースのどんなところに惹かれたんですか?
JW:理屈なしにブルースが好きだった。ブルースはとてもエモーショナルな音楽だ。
――あなたは黒人のコミュニティーに本当の意味で溶け込んだ最初の白人ミュージシャンと言われていますね。
JW:ああ、それは本当のことだよ。
――溶け込むのに苦労したり、その課程で嫌な思いをしたことなどはありませんでしたか。
JW:いや、そんなことはまったくなかった。
――むしろ居心地が良かったですか?
JW:そう、黒人の社会が大好きだったんだ。
PN:ジョニー、ブラック・クラブでB.B.キングと出会った時の話をしてあげたら?
JW:その話はもうみんな知ってるよ。
PN:いや、日本では知らない人もまだたくさんいるんじゃないかな。
――(実は、筆者は知っていたが)そうですね。ぜひお聞かせください。
JW:(テキサス州の)ボーモントにあるレイヴンという黒人のクラブにBBを観に行ったんだ。僕は17歳ぐらいだった(1961年頃)。そこで僕はBBに「飛び入りさせてください。ギターを弾かせてくれませんか」って聞いた。すると彼はユニオン・カード(米国でプロのステージに立つことが許される会員証)を見せろと言う。僕はそのときすでに持っていたのでそれを見せると、今度は「でもオレの曲のアレンジを知らないだろう?」ときた。「あなたのレコードは全部持っています。入っている曲のアレンジもすべて知っています」と答えると、彼は根負けしたみたいで僕に飛び入りを許してくれた。素晴らしかったよ。その時、僕は観客のスタンディング・オヴェイションを受けたんだ。
――自分のギターをちゃんと準備して持って行ったんですね。
JW:いや、持ってなかった。彼のギターを弾いたんだ。
――えっ!?
PN:ジョニーは、B.B.キングのギターを弾いたのさ(笑)。
――B.B.キングの愛器“ルシール”を弾いたんですか!?
JW:そうだ。
――これは初耳です。すごいですね。B.B.キングはとても親切な人ですね。
JW:本当に親切だ。あの時、彼には断ることだって出来た。僕とはそれまでに1度も会ったことがなかったんだから。
――そのあとBBの彼女ともダンスしたんですか?
車中の全員:わっはっはっ(大爆笑)。
JW:いや、それはなかったよ。ハハハ(笑)。

ブルースを、そして僕のプレイを聴き続けてくれ
――何年か前にボニー・レイットがオランダのジャズ祭に出演した時、「私の音楽はジャズではないけど、ジャズとブルースは同じルーツを持つもの」と彼女は言いました。あなたはジャズとブルースの関係についてどう思いますか。
JW:ジャズは好きじゃないんだ。
――あなたの好きなブルースとは関係のない音楽でしょうか?
JW:(ブルースとの)つながりは間違いなくあるよ。僕は、ただ単にジャズが嫌いなだけだ。
――あなたの最新アルバム(先述)には、まさにあなたにぴったりのタイトルが付けられていますね。これは「今後もブルースだけを演奏し続ける」という意思表示のようなものですか。
JW:そう、まったくその通りだ。
――ブルースに飽きるなんて一生あり得ないことですか。
JW:絶対にないよ。ハハハ(笑)。
――それでは最後に、あなたの生のステージを観ることのできない日本のファンに何かメッセージをいただけますか。
JW:ブルースを聴き続けてくれ。僕のプレイを聴き続けてくれ。それだけだ。
――どうもありがとうございました。
JW:どういたしまして。
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ドラマー、ヴィト・リウッツィの話
 ジョニーとのインタヴューを終えてバスを降りると、この日のサポート・アクトを務める地元ヴッパータール出身のブルース・ギタリスト、ヘンリク・フライシュラダー(Henrik Freischlader)が、ハモンド・オルガンも加えた自身のバンドによる農厚なロック・ブルースをホール内で響かせていた。筆者は、そのステージ裏で出番を待つジョニーのバンドのドラマー、ヴィト・リウッツィにも話を聞いた。ジョニーがいまでもファンの前でギターをプレイし続けているのは素晴らしいことだとヴィトに言うと、それを受けて彼はこう語ってくれた。「実は最近、ジョニーは、“引退したい”ってB.B.キングに言ったらしい。でもBBはジョニーに発破をかけた。“オマエはまだ65歳の若造だ。オレが65の時には年間200本のライヴをこなしていた。いまだってツアーに出ていろんなところで演奏している。オレより20も年下のオマエが引退だなんてとんでもない。弱音を吐くな!”って。その言葉に触発されたのか、次の日、ジョニーは、“ツアーに出るぞ! すぐにツアーをブッキングしろ!”ってマネージャーに言ったんだよ(笑)」。BBは、いまでもジョニーに活力を与え続けているらしい。また、ジョニーは、弟のエドガー・ウィンターとの共演ライヴもたまにやるそうだ。「その時は、まずエドガーのバンドが演奏し、次に僕ら(ジョニー・ウィンター&バンド)がプレイして、そのステージの後半にエドガーが加わるのさ」。これはチャンスがあればぜひ観てみたいものだ。

ジョニー・ウィンター&バンド LIVE in Germany!
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ステージに上がる直前にカメラに向かってくれたジョニーのバックの3人。左からヴィト・リウッツィ(ds)、スコット・スプレイ(b)、ポール・ネルソン(g)
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 キャパ500人くらいのオール・スタンディングのそのクラブは、10歳ぐらいの子どもや若い男女、そして中年~壮年までの幅広い年齢層のファンが詰めかけて満員、ソールド・アウトだった。サポートのライヴが終了し、メイン・アクトの機材がセットアップされた舞台の中央手前にはイスが置かれている。B.B.キングと同じように、ジョニーもイスに腰掛けて演奏するのだ。会場のあちらこちらから拍手や口笛に混じって「ジョニー!」のコールが飛び交う。開演予定時刻の夜10時を少し過ぎたころ、バンドのメンバー3人がアップテンポのシャッフル・ブルースをプレイする中、ジョニーがギター・テックの左肩に自分の右手をかけながら慎重な足取りでステージ横の控え室に入った。そこで髪とハットを整えてからオーディエンスの前に登場、椅子に腰掛けて白いレイザー・ギターをテックから受け取り、素晴らしい勢いでプレイしはじめた。一聴しただけでジョニー・ウィンターと分かるそのエネルギー溢れるブルース・プレイは、レコードで聴いていた全盛期70年代の演奏と比べても遜色はない。声も張りがあって良く出ている。会場内の最前列の観客は、そのジョニーのプレイを目と鼻の先の至近距離で堪能している。低い舞台のため、後ろの方にいるオーディエンスにはジョニーのハットがわずかに見える程度だ。ジョニーは、上体をほとんど動かさないで目もあまり開かずにギターを弾きながら歌う。曲が終わると、時々ペット・ボトルの水を口に含み、おもむろにマイクを通して次の曲名を言ってカウントを出し、黙々とプレイして行く。この日、約90分のステージでワン・アンド・オンリーの歌とギターの演奏をたっぷりと観せてくれた永遠のブルース・マンは、最後の2曲でトレードマークの茶色のファイアーバードに持ち替えてスライド・プレイも披露した。
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ライヴ終了後にヴィトが書いてくれたこの日のセット・リスト(下)
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ジョニーの使用機材
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ジョニーは、ヘッドレスで小振りのボディをもつレイザー・ギターをメインに使用している。本人曰く、「レイザーの魅力は、サウンドが良くてとても弾きやすいこと。小さいから持ち運びもラクなんだ」。
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70年代にメイン・ギターとして愛用していたギブソンのファイアーバードは、現在はスライド・プレイ専用で使っている。リアとフロントPUの間のボディ表面が長年の使用によるピッキングで削られていた。また、ドブロも弾くがこれはツアーに持ちだすことはなくスタジオでのみ使用するとのこと。
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ライヴ中はブルーのヘフナーのギターが楽屋に置かれていた。レイザーがトラブった時に備えてのサブと思われる。
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ジョニーのエフェクターは、ボスのコーラス(水色のもの)1個だけ。写真手前に見えるエフェクター・ボードはセカンド・ギタリスト、ポールのもの。また、ジョニーのギター・アンプは、ミュージックマンのフォー・テン(410HD)。
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ジョニーと同じ金髪のファンが最前列でじっと見つめる。

 ジョニー・ウィンターの生のライヴをひと目観てみたい、ぜひ日本でコンサートをやってほしい、という熱烈なファンが日本には大勢いるに違いない。ジョニーが年をとり、ひとりでは歩行もままならない状態のいま、その思いはさらに強いものになっているかもしれない。だが、残念ながらインタヴューで本人が断言した通り、今後も彼のライヴが日本で行われることはないだろう。過去にヘロイン中毒などの重度のドラック問題を抱え、その修羅場をくぐり抜けてきたギター・ヒーローにとって、医師が処方する合成鎮痛薬の服用を避けることができない状態で、その薬剤に対する法律が異なる国でギターを弾くのは現実的ではないのだ。

 アルビノ=先天性白皮症のジョニーにとって、光はとても眩しいらしい。ステージでハットをかぶるのは、格好付けではなくて強烈なライトの光を遮るためでもあるようだ。視力もかなり弱いらしい。ジョニーと同じアルビノ体質で世界的に名前が知られるミュージシャンと言えば、まず最初に彼の弟エドガーが思い出されるが、その他にも西アフリカ・マリ出身のシンガー、サリフ・ケイタやジャマイカ・キングストン出身のレゲエDJ、イエローマンなどがいる。ある古い書物には古代の大洪水から生き物を救ったあの救世主ノアもアルビノだったという記述も残っているらしい。その真偽のほどは誰にも分からないが、真っ白な男(不思議なことに話に出るのはみな男性)は、何か特別な才能・能力を持っているのかもしれない。
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【追記:インタヴューの文中にも追記したが、ジョニー・ウィンターは2011年4月に初来日を果たして東京で公演を行い日本のファンに元気な姿を見せてくれた。「やはり」と言うべきか、ジョニーの日本でのライヴを観た人の話では、会場に集まったファンの年齢層は高めだったようだ。】

【訃報:2014年7月16日、ヨーロッパ・ツアー中にスイス・チューリヒのホテルで死去、70歳。ご冥福をお祈り致します。】

日本のジョニー・ウィンター・ファンサイトによる来日公演レポート >>
Johnny Winter Official Site ジョニー・ウィンター公式サイト >>
Johnny Winter Official MySpace Site ジョニー・ウィンターのマイスペース >>

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by reijimaruyama | 2009-10-20 08:26 | Musician / Interview

 マイケル・ブレッカー(ts)亡きあとの現代のジャズ界において、そのサックス・シーンを牽引するもっとも重要な人物のひとりと言えるのがブランフォード・マーサリス(sax)である。素顔のブランフォードは、サックスのプレイと同様にとても多弁で自分の考えることをストレートに言葉で表す気さくな人柄。だが、それと同時に雑誌の取材にはあまり応じないタイプのミュージシャンでもある。筆者は、ジャズライフの記事のために、2009年5月18日にドイツ・フランクフルト市内のホテルに滞在するブランフォードを訪ねて2時間近くにおよぶロング・インタヴューを行った。
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Branford Marsalis
オランダのノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルでジョン・コルトレーンの『至上の愛』を演奏した時のブランフォード・マーサリス(2006年7月13日撮影)

 2009年3月にブランフォード・マーサリス・クアルテット(以下BMQ)名義でニュー・アルバム『メタモルフォーゼン』をリリースしたブランフォードは、この時までその新作に関する日本の雑誌からの取材を受けていなかった。さらに、これまで30年間演奏活動を共に続けてきた才能溢れる実力派ドラマーのジェフ・“テイン”・ワッツが新作発売後にバンドを脱退、そのため、新作のフォローアップ・ツアーとなるこの欧州遠征には弱冠18歳の新人ドラマーが急きょ参加する、という大変化もあった。ブランフォードにしてみれば「いろいろ話したい」状況だったに違いない。こちらにしてみればラッキーなタイミングだった。

 ブランフォードとの約束の時間は午後6時。彼は、その夜のライヴのために午後7時45分にホテルを出て、タクシーで会場に向かうことになっていた。だがインタヴューは予想以上に長引き、ブランフォードは、会場入りの時間が迫っても筆者の目の前で荷物を片付けたり歯を磨いたり、最後はステージ衣装に着替えながら話しを続けた。
  この時のインタヴューと、そのあとに行われたコンサート(新人ドラマー、ジャスティン・フォークナーが加入してのライヴ)の記事は、ジャズライフ2009年7月号に掲載されたが、即興的な会話も多かったブランフォードのロング・トークをその記事の中にすべて書き込むことは到底不可能だった。取材の録音ディスクを文字に起こしてみると、なんとそれは編集部から指定された文字量の約6倍もあったため、その原稿は大幅に削る必要があったのだ。冒頭で述べたように、ブランフォードはめったに雑誌の取材に応じない。当然ながら、ファンが彼のインタヴュー記事を目にする機会は少ない。あまり聞くことの出来ない彼自身の言葉を筆者のパソコンに封印しておくのはもったいない。もちろん、この取材で集めた“おいしいところ”は、ジャズライフに掲載されているが、ブランフォードの人となりを垣間見せてくれるものはまだ他にもある。そこで、ジャズライフに収めきれなかった未発表の部分を可能な限りここで紹介する。
 1960年8月26日、ニューオリンズ生まれのサックス・マン、ブランフォード・マーサリスのロング・トーク。文字通り長文であることを最初におことわりしておいた方が良いかもしれない。
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Branford Marsalis Quartet 2009
2009年5月18日にフランクフルトで行われたライヴのショット。ちなみにこのあとの写真はすべてこの日に撮影したもの。

ブランフォード・マーサリスのロング・トーク&そのあとに行われたライヴ >>
by ReijiMaruyama | 2009-06-30 23:04 | Musician / Interview

 ちょうど1年前の今日、2007年9月11日にジョー・ザヴィヌル(kb)が亡くなった。筆者が最後にザヴィヌルの勇姿を見たのは、その2ヶ月前にオランダのロッテルダムで行われたノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルの初日(2007年7月13日)に出演したザヴィヌル・シンジケートのライヴだった。ザヴィヌルの愛したドラマー、パコ・セリを加えたバンドの演奏はとてもエネルギッシュで、ザヴィヌル本人もいつものようにステージ上でメンバーに自身の身振り手振りやその表情であれこれと指示を与えながらのプレイでザヴィヌル節が全開だった。その時は、「ずいぶんやせたなぁ」と思ったが、まさかあの後すぐに具合が悪くなって、あんなに早く逝ってしまうとは夢にも思わなかった。
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Joe Zawinul
2007年7月13日、死の2ヶ月前にノース・シー・ジャズ祭に出演したジョー・ザヴィヌル

 2002年の夏、ジャズライフの記事のためにノース・シー(当時はハーグ市で開催されていた)でザヴィヌルにインタヴューした。その時、はじめてお互いに目と目を合わせたのだが、そこで筆者はザヴィヌルから個人的なお褒めの言葉をいただいた。「君は輝いているね(you are bright)」というその言葉にとても勇気づけられたのだ。こちらは、以前からあこがれていた天才ミュージシャンに対していろいろと質問することができて、ただ舞い上がっていただけなのかもしれないが、ザヴィヌルの目にはそれが“輝いて”見えたのかもしれない。そんなこともあって、これまでにも時代を築いた素晴らしいミュージシャンが数多く亡くなっているが、昨年9月の「ジョー・ザヴィヌル逝く」の報は個人的に特別なものだった。「ザヴィヌルの本拠地だったウィーンのバードランドを訪ねてみたい」という思いは自然とこみ上げてきた。そして、ザヴィヌルの49日を数日過ぎた頃に当たる11月2日と3日に、バードランドでリチャード・ボナのライヴが2日間組まれているのを知り、「これがチャンス!」と意を決した。

 2007年11月2日金曜日、小雨のぱらつく午後のケルン空港(ドイツ)を飛び立ち、1時間半後に曇り空のウィーン空港(オーストリア)へ到着。その足ですぐにウィーン市内中心部のヒルトン・ホテルの地下にあるジョー・ザヴィヌルのバードランドへ向かった。その夜はボナ・バンドのライヴを観たあと、ザヴィヌルの息子(次男)エリックに会いバードランドに関する話を聞いた。そして翌日、ザヴィヌルのマネージャーを20年間務めたリザ・ツィンケ(Risa Zincke)女史にインタヴューし、さらに彼女の案内でザヴィヌルのお墓参りをした。この時のウィーン取材リポートは、ジャズライフ2008年1月号に掲載されたが、ここではその記事の中に収めきれなかった話をかいつまんで写真と共に紹介してみたい。特に、ただひとりだけジョー・ザヴィヌルの75年と2ヶ月の人生最後の瞬間を見届けた人物であるツィンケ女史は、ザヴィヌルが2007年夏のラスト・ツアーを終えてから死の床に伏して最期に至るまでのあまりにも悲しい様子も話してくれたので、今回あえてその部分も記しておこうと思う。

ジョー・ザヴィヌルズ・バードランドとウィーン中央墓地 >>

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by ReijiMaruyama | 2008-09-11 23:49 | Musician / Interview

 さすがに21世紀を生きる若者らしくズボンのベルトの位置が70年代と違ってかなり下の方ではあるが、これで髪の毛をのばしてフレットレスのフェンダー・ジャズベースを持ったらお父さんにそっくり。今回は第5回:ジョナス・エルボーグの記事の最後の方でちょっと触れた“背高ノッポのベーシスト”である。さて、彼はいったい誰だろう?
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Who is this bass player?

背高ノッポのベーシスト、フェリックス・パストリアスへのインタヴュー
 鋭いベース・ファンならすでに察しはついていたかもしれない。彼の名はフェリックス・パストリアス(Felix Pastorius)。1976年にアルフォンソ・ジョンソン(b)の後任としてウエザー・リポートに参加し、自らの手でフレットレスに改造したフェンダー・ジャズベースを使った独特のトーンとそれまで誰も成し得なかった高度な演奏技術でエレクトリック・ベース界に大革命を起こした天才ベーシスト、ジャコ・パストリアス(1951年12月1日生~1987年9月21日没)の息子である。

 1982年の夏、ウエザー・リポートを脱退した直後にジャコは、総勢21人からなる自己のバンド“ワード・オブ・マウス・ビッグバンド(ジャコ・パストリアス・ビッグ・バンドとも呼ばれる)”を引き連れて来日した。その時のコンサートは録音されて『TWINS Ⅰ&Ⅱ』という2枚組のアルバムになっているが、このタイトル(TWINS = “双子”の意)は、来日直前(6月9日)に生まれたジャコの双子の息子、ジュリアスとフェリックスの誕生を記念してつけられたものだ。

 天才ジャコのDNAを受け継ぐジャコの子どもは、この世に4人存在する。ジャコの最初の妻トレイシーとの間に生まれたメリーとジョン(3つ違いの姉弟)は、ジャコのソロ2作目『ワード・オブ・マウス』(81年)に収録された曲「ジョンとメリー」に幼いヴォーカルで参加した。メリーは、現在シンガーとして音楽活動を行っており、ジョンもメリーのアルバムにドラムで参加しているらしい。
 2番目の妻イングリッドとの間に生まれた双子は、現在マイアミで way of the groove というバンドを組んで活動している。兄のジュリアスがドラム、弟のフェリックスがベースだ。ちなみに、ジャコはベースに転向する前はドラマーで、ジャコの父親ジャック・パストリアスも元ドラマー、そしてジャコの甥デイヴィッド・パストリアスはベーシストである。パストリアス家にはリズム・セクションの血が流れているみたいだ。生前のジャコの口癖に「レディース&リズム・セクション・ファースト」というのがあったそうだ。「音楽の土台を支えるドラマーやベーシストを女性と同じくらい大切に扱おう」という意味のジャコ流の洒落たフレーズだ。
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Jonas Hellborg & Felix Pastorius
フランクフルトのメッセ会場でジョナス(左)とツー・ショット。フェリックスは父ジャコも大好きだったジミ・ヘンドリックスのTシャツを着ている。

 さて、2007年3月29日にフランクフルト・ムジークメッセの会場でジョナス・エルボーグ(b)と共にデモ演奏を行っていたフェリックスにインタヴューすることができたのでここで紹介したい。“世界最高のベース・プレイヤー(The World's Greatest Bass Player)”と自ら称し、自他ともにその天才ぶりを認めた父ジャコと同じ楽器を演奏するのはどんな気持ちだろう。フェリックスに質問をぶつけてみた。


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父のベース・ソロを細かく1音1音コピーした曲もある
——お父さんがメンバーだった時のウエザー・リポートのコンサートを東京で観たんです。1980年、あなたが生まれる2年前です。
フェリックス・パストリアス(以下FP):そのライヴでは「スリー・ヴューズ・オブ・ア・シークレット」を演奏したのかな?
——バンドは最初からものすごい勢いでした。1曲目の「ブラック・マーケット」がはじまると、お父さんはベースの1弦3フレットのあたりを使ってあのベース・ラインを強烈に弾きはじめたのです。それを見て「ベースってあんなポジションでバッキングしてもいいのか!?」と目を丸くしてしまいました。その後はもう圧倒されっぱなしで、いまとなっては、お父さんが1曲ドラムを叩いたこととベースを弾く時の姿があまりにも格好良かったこと、それぐらいしか記憶にないです。
FP:(笑)なるほどね。
——「スリー・ヴューズ~」は、お父さんがあなたのお母さんに捧げて書いた曲で、原題はお母さんの名前「イングリッド」だったそうですね。
FP:うん、僕も母からそう聞いている。
——素晴らしい曲ですね。お父さんはベース奏者としてだけでなく作曲者としても優れていました。
FP:僕もそのことを言いたい。父の驚異的なベース・プレイは、父が残した素晴らしい音楽の一部分だと思う。ベースの奏法に限って言えば、僕はもっとロック的なレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーとかプライマスのレス・クレイプルなどのプレイを聴いているよ。
——その2人はスラップ奏法が得意ですよね。
FP:だから僕もスラップをたくさんやる。父はあまりやらなかったよね(笑)。
——お父さんの演奏を真似してみた事はありますか。
FP:もちろんあるよ。すべてじゃないけど、父のベース・ソロを細かく1音1音コピーした曲もある。僕にはそれを避けて通る事は出来なかった。

ベース奏者は音楽をコントロールする権限を与えられている
——偉大なミュージシャンだったお父さんと同じ楽器をプレイするというのはどんな気持ちですか。
FP:人々が“ジャコの息子”という見方で僕に接してくる事はあまり気にならない。でも、僕のプレイに“ジャコ”を期待する人が多いのも事実だ。そういう人たちの気持ちはわからないでもないけど、これは正直言ってつらいよ。僕は音楽が好きでベースを弾くのが楽しいだけ。僕の演奏を観た人が不満を感じたとしても、申し訳ないけど僕にはどうすることも出来ない。
——ベースの魅力って何でしょう?
FP:ベース奏者は音楽をコントロールする権限を与えられていると思う。他の楽器がプレイしやすいように音楽を支えるのがベースの役目であり、それが魅力なんじゃないかな。
——音楽の“鍵”をベースが握っている、と?
FP:その通り。ベースの動き方次第で曲のキー(調)やリズムなどすべてが変わってくるからね。
——あなたはどのようなミュージシャンでありたいと思っていますか。ベーシスト、トータル・ミュージシャン、それともコンポーザー? 
FP:本音を言うと自分でもまだわからない。他のミュージシャンと演奏するのは楽しいし、そこから新しい感覚を得ることもできる。作曲もフィーリングを重視しながらやっているよ。僕の兄(ジュリアス)は素晴らしいドラマーで、僕らはギターとサックスを加えたバンドを組んでいるんだ。
——そのバンドではどんな曲を演奏するんですか?
FP:ハービー・ハンコック(p,kb)やウエザー・リポート、それに父の曲もたくさんプレイする。でも、すべて独自のアレンジでやっているから、僕らの曲だと勘違いする人も多い(笑)。
——先ほどのデモ演奏でワーウィックの6弦ベースを弾いてましたが、あれがあなたのメイン・ベースですか。
FP:いや、あれは借り物。僕のメインはこの5弦ベースだ(と言って見せてくれたのが下の写真の黒いベース)。フレットはついている。5弦ベースというとローB(低音弦)が張られているものが多いけど、僕はハイC(高音弦)を加えた。これでテナー・サックスの音域が出せるんだ。高い音を使ってコードを弾いたりもする。でも、ソロを弾く時にあまり高音でやりすぎないように注意しているよ(笑)。
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“Lauricella Custom Guitars”というロゴがヘッドに入ったフェリックスの5弦ベースは、ジャズベースを基にして製作されたカスタム・メイド。フレットレス・ベースのように丸みを帯びたサウンドが狙いか、黒いフラットワウンド弦が張られていた。

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by ReijiMaruyama | 2008-06-20 20:48 | Musician / Interview

 「あのことがなければ現代のような音楽の発展はなかったんじゃないか」という問い方が、カサンドラに対してかなり無骨な言い方であることは承知の上だった。1996年11月30日、デュッセルドルフでコンサート前のカサンドラ・ウイルソンを宿泊先のホテルに訪ねてインタヴューした時のことである。「アフリカの影響こそアメリカの音楽に固有のもの」と言うカサンドラの言葉を受けた筆者は、「あの悲しい歴史を唯一良い方に解釈するとすれば」と断りを入れた上で、あえて黒人奴隷制度にふれた先の質問を投げかけてみた。案の定カサンドラは、それに対してすかさず言い返してきた。「私たちはひどい仕打ちを受けたのよ。私たち黒人の中に重くのしかかっているのは、その暗く痛みに満ちた歴史なの」と。しかし、こちらの言わんとすることもわかってくれたのか、さらに次のような言葉を続けた。
 「でも…、その“痛み”の裏返しによって私たちはこれまで“美”を創造し続けることができたとも言えるわ」。
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Cassandra Wilson 2005年7月8日撮影

 いまでこそ名実共にアメリカの女性ジャズ・ヴォーカル界を代表するという地位を得たカサンドラだが、当時はまだ日本でも彼女の人気に火がつきはじめた頃だった。ブルーノートにレーベルを移して発表したアルバム『ブルー・ライト』(93年)に続く新作『ニュー・ムーン・ドーター』(95年)が好評で、そのアルバムで96年度のグラミー賞(ベスト・ジャズ・ヴォーカル・パフォーマンス)を受賞するちょっと前。ツアー中にドイツでテレビのトーク番組に出演するなど積極的なプロモーションを行っていたが、その彼女のインタヴューを取るのはなかなか厳しいとも聞いていた。しかしカサンドラは、この日のスケジュールがタイトになってきているにも関わらず、約束していた予定の時間をオーバーしながらこちらの質問にていねいに答えてくれた。

なぜ、そして何のためにあなたは音楽で表現するのですか?
 「私がなぜ音楽をやってるのかって? それ以外に方法がないからよ(笑)。他にチョイスがなかったの。小さい頃から私の周りに音楽が溢れていて、それは生活の一部だったのよ。クラシックも学んだし、父はギタリストでジャズを愛していた。母はモータウンが大好きで、兄弟はダンスが上手(笑)。私はカントリー、ブルース、フォークとかいろんな音楽を聴いて育ったの。それらひとつひとつのものが集まっていまの私の音楽を形成しているのよ」。
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ライヴでリラックスしてくるとステージの上でかかとがぺたんこのクツを脱ぎ捨てて裸足になる 2003年7月12日撮影

 聴く側だけでなく演奏する者の心も捕らえて離さないジャズの醍醐味は“即興”である。そしてそれは、楽器だけでなく歌についても同じだ。カサンドラもステージでどう歌うかということは前もって決めないという。「単調なのは嫌いなの。大変だけどいつもできるだけフレッシュにやるようにしているわ。昨日何マイルも離れた街の人たちの前でやったことと同じことなんて、やりたくないし出来ない。今夜のコンサートに来る人たちは、昨日コンサートに来た人たちとは違ったムードを持ってくるでしょう。日も違うし、今日は雨も降っているわ。人々のヴァイブレーションや、きめの細かさとか匂いや色といったものには、それぞれの街によって独特のものがあるの。だから私はコンサートの度に街へ出て、そこの人たちから得たムードをその日の歌に反映させるのよ」。

デュッセルドルフの聴衆をがんじがらめにした深みのある歌声
 その夜、カサンドラのライヴをはじめて観た。彼女が登場して歌い出すと、その瞬間にホールの空気が一変。聴衆は息をするのもはばかるようにしてじっと聴き入っている。まるでカサンドラの歌にがんじがらめにされているかのようだ。後にも先にもこのことが一番強く印象に残っている。しかしそんな重苦しい雰囲気の中で、蛇ににらまれたカエルのようにいつまでもじっとしていたら誰だって苦痛だろう。カサンドラもそれを承知しているようで2~3曲歌い終えると、「もうコンバンワってご挨拶したかしら?」などと言いながら笑顔を見せて観客の気持ちを和らげることも忘れていなかった。

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このページの写真は、いずれもオランダのノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルに出演した時のステージから この3枚は2002年7月14日撮影c0182910_4252396.jpgc0182910_4255714.jpg
 西アフリカ・ガーナのアシャンティ部族のことわざに「新月(New Moon)は病を治癒する」というのがあるそうだ。自由な発想とその独特の歌唱力により創り出されるカサンドラ・ウイルソンの音楽には、いわゆるヒーリング・ミュージックとはまた違った実に深い空間が存在している。それを一言でいうと、「思いっきり黒っぽい」。そして、それが何年経っても変わらない。彼女のように、自分らしさを追求し、それを前面に押し出した活動を続けるということは、すべてのアーティストが理想とするものであるにちがいない。

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by ReijiMaruyama | 2008-06-03 10:23 | Musician / Interview

 2005年のノース・シー・ジャズ・フェスティヴァル(オランダ)にステップス・アヘッドが出演した。4本マレットを使うヴァイブラフォン奏者マイク・マイニエリをリーダーとするこのバンドのライヴは、事前のメンバー発表によればマイニエリ以下、マイク・スターン(g)とマイケル・ブレッカー(ts)というフロント組が、スティーヴ・スミス(ds)とリチャード・ボナ(b)のリズム隊をバックに共演するということで期待していたのだが……。
 70年代末に“ステップス”という名前で活動を開始してから四半世紀という長い歴史をもつこのバンドは、これまでメンバーが数多く入れ代わっても、マイニエリとブレッカーのコンビが“看板”だった。ところがなんと、この時はマイケルが欠けてしまった。マイケルは、その夏のヨーロッパ・ツアーを目前に控えた6月にニューヨークで行なわれたステップス・アヘッドのコンサート直前になって病気のためにリタイヤ。そのため、ビル・エヴァンス(ts,ss)が急きょ代役を務めることになったのだ。マイケルが患ったのは、「骨髄異形成症候群」という血液がんの一種で白血病に進行することも多い深刻な病気だった。
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Michael Brecker 2004年7月10日ノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルで最後に見たマイケル

 現代ジャズ・サックスの最高峰と言われていたマイケル・ブレッカーは、その時からツアーの予定をすべてキャンセルして闘病生活に入った。1年後にはハービー・ハンコックのステージに飛び入り演奏するなどして容体は回復に向かっているとの報もあったが、病を克服するためには彼と完全適合する骨髄の移植手術が必要だった。その骨髄提供者(ドナー)をなんとか探し出そうと、マイケルの家族や友人、大勢のファンらが尽力するが、その努力も実らず、マイケルは、2007年1月13日に白血病のため他界してしまった。

印象に残るマイケルの言葉
 マイケルを最後に見たのは、その前年、2004年7月の同ジャズ祭に彼が3日間出演して大活躍した時だった(上の写真)。マイケルは、オランダのコンサヴァトリー(音楽学校)の学生達と一緒にクインデクテット(5管やストリングス・クァルテットなどを含む15ピースのバンド)でプレイし、アコーディオンやバンジョー、サンプラーなどを使ったオランダのモダン・クリエイティヴ・フリー・ジャズ・バンドのファーマーズ・マーケットとも共演。そして、ジェフ・ティン・ワッツ(ds)、クリス・ミン・ドーキー(b)、ジョーイ・カルデラッツオ(p)を従えた自己のクアルテットやソロ(独奏)・コンサートも披露し、さらにサックス・ファンを前にしてワークショップ(クリニック)まで行うという充実ぶりを見せていた。「ここ最近半年間ぐらいは、ニューヨークに住むブルガリア人のヴァイオリニストからブルガリアのフォーク・ミュージックを学んでいるよ」と筆者に打ち明けてもくれた。その時、「いまでも新しいことを学んでいるマイケルは、まだ50代でこれからますます円熟して行くだろう」と思わせてくれたのだ。
 そのジャズ祭のワークショップでマイケルが語った言葉の中に、いまでも印象に残っているものがある。それは、作曲について質問があった時に言ったこと。「曲のアイデアがあったら、そのまま放っておかないで“とりあえず”でもかまわないから最後まで仕上げた方がいい。そうしないと机の引き出しの中が未完成のアイデアだらけになってしまうよ(笑)」というものだ。筆者は、それを聞いた時に「“とりあえず”なんて、そんなやり方で良い音楽が作れるだろうか。良いフィーリングが浮かんでこない時に無理して曲を最後まで仕上げる必要なんてないのでは?」と思った。しかし後になってマイケルの重い病のことを知らされると、あの時の彼の言葉は、すでに自分の病に気づき、あるいはひょっとしたら、自分の死期がそう遠い先のことでないかもしれないとまで悟った上でのレクチャーだったのか、とも思えてくる。「人生、いつどうなるかわからない。いまできることを最後までやりなさい」ということをマイケルは暗に言いたかったのではないか、と。

マイケル・ブレッカー&パット・メセニー・スペシャル・クアルテット
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Michael Brecker & Pat metheny Special Quartett with Bill Stewart(ds/left) and Larry Goldings(org/right)

 こちらの写真は、2000年7月14日のノース・シーのステージ。この年の夏はパット・メセニーとスペシャル・クァルテットを組んでヨーロッパをツアーした。ドラムはビル・スチュワート(写真左)、オルガンがラリー・ゴールディングス(同右)というベースレスのバンドだった。

そのライヴの後でラリー・ゴールディングスに聞いた
——オルガンのペダルでベーシストの役目も果たすあなたは、演奏中とても忙しそうですね?
ラリー・ゴールディングス(以下LG):忙しいけど楽しいよ(笑)。でも「ここでベーシストがいてくれたらなぁ」と思うことが時々あるのも事実だね。それにピアノを弾きたくなることもあるよ。だけどこの編成(ベースレス)では、ピアノでベース・ラインまでカヴァーするのはちょっとキビシイ。だからペダル・ベースが必要なんだ。
——マイケルについて一言お願いします。
LG:マイケルは天才だよ。彼は僕のフェイヴァリット・ミュージシャンのひとりなんだ。僕は、以前からジェイムス・テイラーやポール・サイモンのアルバムなどでマイケルの演奏を聴いていた。でも彼と一緒にプレイできるなんて思ってもみなかった。その頃はマイケルのことをポップ・サックス・プレイヤーとして聴いていたんだ。自分とは違ったシーンにいる人だと思っていたんだよ。
——パット・メセニーについてはどうですか?
LG:僕にとっては、パットは、マイケルと共にもう1人のヒーローだ。僕がジャズに興味を持ちはじめたのは12歳ぐらいの時からだけど、パットの音楽はそれよりもっと前から聴いていた。だからこのバンドは、僕にとっては、まさに“ドリーム・カムズ・トゥルー”なんだよ!

ブレッカー・ブラザーズ
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Brecker Brothers The Return of the Acoustic Band

 2001年7月15日、ブレッカー・ブラザーズ・アコースティック・バンドでノース・シー・ジャズ祭の最終日に出演。この時は、兄のランディー・ブレッカー(tp)、弟マイケル、デイヴ・キコスキー(p)、ピーター・ワシントン(b)、カール・アレン(ds)というメンバー。

ディレクションズ・イン・ミュージック
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Directions in Music Celebrating Miles Davis & John Coltrane
Herbie Hancock/Michael Brecker/Roy Hargrove


 60年代の中期、ハービー・ハンコック(p/1940年生まれ)は、マイルス・デイヴィスのクインテットでプレイしていた。マイケル・ブレッカー(ts/1949年生まれ)は、その頃、多感な10代でマイルスやコルトレーンのレコードを愛聴していた。そして、ロイ・ハーグローヴ(tp)が産声を上げた時(1969年)には、ジャズの偉人コルトレーンはすでにこの世を去り、マイルスはエレクトリック化への新たな旅立ちをはじめていた。ジャズの世界では祖父、父親、息子のような3世代のミュージシャン、ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローヴの3人は、2001年の秋にジョン・パティトゥッチ(b)とブライアン・ブレイド(ds)をバックに、マイルス&コルトレーン生誕75周年企画ライヴをトロントで行い、それをレコーディングしたアルバム『ディレクションズ・イン・ミュージック~マイルス&コルトレーン・トリビュート』を2002年5月にリリース。そしてその夏、ジョージ・ムラーツ(b)とウィリー・ジョーンズⅢ(ds)というリズム隊ふたりを加えてヨーロッパをツアーした。写真(上と下)は、2002年7月12日、ノース・シーの初日に出演した“ディレクションズ・イン・ミュージック”のステージ。
 そのライヴは、前述のアルバム収録曲を中心に進み、最後は“未解決”の雰囲気を持つチューンで終了。それはまるで、完結すると思って観ていた最後の最後に“つづく”の3文字を見せられたような、マイルスとコルトレーンの音楽は「永遠につづく」とでもいうような見事なカット! マイルスとコルトレーンに対するハービーとマイケル、ハーグローヴらの愛情の深さを感じさせてくれる上質のライヴだった。マイケルが行った「ナイーマ」独奏では、どっしりとした太い低音、つやのある中音、それにハイ・トーンのフラジオが唸り、途中でこれは究極のスケール練習か? と思わせるような素早い登り下りのパッセージや微妙なビブラートで見事にコントロールされたしっとりトーンなどをたっぷりと堪能させてくれた。
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 マイケルが死の直前まで制作作業を続けて完成させたという遺作アルバムは、彼が残した作品の中でも最高傑作との評価を得てグラミー賞も受賞した。
 そのタイトルが『聖地への旅』(原題:Pilgrimage)というのは、なんともファン泣かせである。

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by ReijiMaruyama | 2008-05-15 13:03 | Musician / Interview