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 ヤン・ガルバレク(ts,ss)は、ノルウェーのジャズ・ミュージシャンの最高峰にして孤高のサックス奏者である。他の誰も出し得ない透明感あふれる音色と美しいメロディを奏でることで知られ、演奏スタイルは耽美的で禁欲的と言われる。だが、ガルバレクが2009年10月に発売した2枚組ライヴ・アルバム『ドレスデン』(ECM)を聴いてみると、そんな堅苦しいイメージとはまた別の万人受けする音楽性があることにも気がつく。その新作リリースに合わせてドイツ国内をツアー中のガルバレクが、2009年11月10日、レヴァークーセンのジャズ祭、レヴァークーゼナー・ジャズターゲ(文末のリンク集参照)に出演した。
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Jan Garbarek Group
Live at 30. Leverkusener Jazztage on November 10, 2009

ヤン・ガルバレク・グループ:メンバーは、写真左からライナー・ブリューニングハウス(p,kb)、ユリ・ダニエル(b)、ヤン・ガルバレク(ts,ss,selje flute)、トリロク・グルトゥ(perc) <本記事の写真はすべて取材当日2009年11月10日撮影>

 ライヴ前に行われたガルバレク・グループのサウンド・チェック。モニター音量のバランス調整の問題で鍵盤奏者ブリューニングハウスとパーカッションのグルトゥがしばしディスカッションする場面があった。その間、ステージの中央に立つガルバレクは、黙って事の成り行きを見守りながら解決策をふたりの判断にゆだねていた。この時、「ガルバレクは無口で自制的」という印象を受けた筆者は、音合わせ終了後、ガルバレクの人柄についてユリ・ダニエルに聞いてみた。すると、図らずも彼の口からは次のようなコメントが返ってきた。「ヤンは、とてももの静かで、いつもしっかりと自分をコントロールしている。それなのに、バンドのメンバーや周りの人々を自然とひとつにまとめていくから驚きだ。そんなヤンの人柄は、彼の音楽にそのまま表れている。ヤンは、音楽に対するはっきりとしたビジョンを頭の中でつねに描いている。オーケストレーションに関しては、エバーハルト(下記注参照)の力が大きかったと思うけど、ヤンのアイデアが土台となっていたことは疑いの余地がない」。

(注)エバーハルト・ウェーバーは、1940年1月22日、ドイツ・シュトゥットガルト生まれのベーシスト。70年代からECMサウンドを代表するミュージシャンのひとりとしてリーダー・アルバムを数多く発表し、ゲイリー・バートン、ラルフ・タウナー、パット・メセニー、ヴォルフガング・ダウナー、ケイト・ブッシュ他のアルバムなどにも参加。ヤン・ガルバレクとは約30年間に渡って活動を共にしてガルバレクの音楽を支えてきた。だが、2007年初頭に病気(脳卒中)で演奏不可能となりガルバレクのグループを脱退、急きょユリ・ダニエルが後任を務める事になった。
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「エバーハルト・ウェーバーの大ファンで、それが高じてベースを弾きはじめた。だから、いつかヤン(・ガルバレク)と共演したいとずっと思っていた。ヤンのツアーでは、エレクトリック・ベース(ワーウィックの5弦フレットレス)を使っているけど、本当はウッド・ベースが僕のメインなんだ」というブラジル出身のユリ・ダニエル。現在はポルトガルに住んでいる。
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ガルバレクのグループで20年以上プレイしているドイツ人の鍵盤奏者、ライナー・ブリューニングハウス。キーボードを多用してサンプル音やループなどでガルバレクの音世界をサポートしていた。ライヴ中盤で観せた独奏ピアノ・ソロは、キラキラとした美しさと壮大な力強さを持った迫力あるプレイで聴衆から大喝采を浴びた。
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バスドラとスネア、ハイハットなどにタブラやジャンベ、シェイカー、様々な形のシンバルやベルなどの金物を数多く組み合わせて強力なドラム&パーカッション・セットを構築し、ドラマーともパーカッショニストとも言いがたいアプローチを観せていたインド人、トリロク・グルトゥ。以前は地べたに座っていろいろな種類の打楽器を鳴らしていたが、今回はドラム用のイスに座ってプレイしていた。水入りのバケツを叩いたり、その水にゴングやチャイムを浸しながら鳴らすなど、独特の世界を創りだしてガルバレクの音楽に色を添えていた。
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ジャズターゲの模様は、毎年、地元ケルンのテレビ局WDRが録画放映している。

無口のガルバレクはインタヴューがお嫌い?
 1947年3月4日、ノルウェー・ミーセン生まれのヤン・ガルバレク。この孤高のサックス奏者は、ツアー中の取材を一切受け付けておらず、レヴァークーセンでもテレビ局のインタヴューを断っていた。筆者もガルバレク本人と話すことは出来なかったが、彼のマネージャーの計らいで、ガルバレクが一部のプレス向けに特別に制作したインタヴューCDを入手することが出来た。その中身は、こちらが聞きたかった質問に対する答えが満載のとても充実した内容! 自己名義でのライヴ盤を出すのがいまになってしまった理由や、ライヴのセット・リストのこと、クアルテットというバンド・フォーマットについて、マヌ・カッチェ(ds/ライヴ盤が録音されたツアーに参加)とトリロク・グルトゥ(今回のツアーに参加)というふたりの打楽器奏者から受ける影響、自分の作曲方法や即興についてなど、11の質問に対して、思慮深い言葉でとてもはっきりと丁寧に答えている(質問者の名前は不明)。それを聞くと、ガルバレクは、決してインタヴュー嫌いという訳ではなく、ツアー中は演奏に集中したいだけなんだろうと思えてくる。それらの言葉を盛り込んだ記事は、ジャズライフ2010年1月号に掲載された。最近ではあまり聞く事の出来ないヤン・ガルバレクの貴重な発言が詰まっているので、特にガルバレク・ファンの方たちにはぜひ読んでいただきたい。ちなみに、その号では、開催30回目を迎えて大いに賑わったジャズターゲの模様(ガルバレク以外にもマーカス・ミラーやアル・ディメオラ、リー・リトナー、キャンディ・ダルファー他の人気アーティストが数多く出演)も巻頭カラーで大きく取り上げられている。バックナンバーもいまならまだ簡単に手に入るので、どうぞよろしく。
 さて、話がちょっと横道にそれてしまったが、ここで、そのジャズライフの原稿に書ききれなかった3つの質問に対するガルバレクの言葉を紹介してみたい。

自分の音楽をジャズであると考えるか?
 「私にとってジャズとは、ルイ・アームストロングにはじまり1960年から65年頃までの間に完結したものだ。それ以降のすべてのものは、私がジャズと呼ぶものとは別領域にある。アームストロング、エリントン、オスカー・ピーターソン、ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードンがジャズ。初期のマイルスとコルトレーンもジャズと呼べるが、のちに彼らは私が考えるジャズの範疇から飛び出した。どこまでがジャズなのか? それは聴く人の定義、カテゴライズの仕方によって異なる。だが、リズムのあるインストゥルメンタル・ミュージックをすべてジャズと呼ぶのは無意味だ。それでは言葉の水増しだ。私は、自分の音楽をジャズという言葉では……、いや、ジャズであるとは考えていない。ジャズのリスナーとして、またその演奏者としての私の長い歴史が、私の音楽にジャズの要素を持ち込んでいることは間違いないだろう。だが、多少は異なったものになっているんじゃないかな。それを何と呼ぶのか、名前のようなものを見つける必要なんてない、ということを私は幸運に思うよ」。

音楽をはじめたきっかけ
 「12か13歳の頃、エルビス(・プレスリー)などのレコードにあわせて女の子と一緒に踊るのは楽しいと思ったけれど、音楽そのものにはまったく魅力を感じなかった。でもラジオでジョン・コルトレーンを聴いてすべてが変わった。あれは私の人生でとても重大な出来事だ。ある日、戸外で友達と遊んでいた私は、いつの間にか夕方になって周りが暗くなってきたので家に入った。すると音楽が聴こえた。その時、とても特別な何かに引きつけられたんだ。曲が終わると司会者が「これで今週の“ジャズ・アワー”を終了します」と言ったので、その音楽がジャズだと知った。その番組はコルトレーンの新しいアルバム『ジャイアント・ステップス』(1960年)の曲を放送していたらしくて、私が聴いたのは「カウントダウン」だった。すぐに私はアルバムを手に入れて、それ以来毎朝学校へ行く前に朝食を食べながら聴いた。毎日、何年間も聴き続けたよ。当然のごとく、私は両親にサックスが欲しいとせがんで困らせた。半年ほどして、ついにクリスマスにサックスを手に入れた。でもそれはとても古くて状態の悪い楽器だった(笑)。パッドを取り替えるために2週間ぐらいオーバーホールに出す必要があったが、私はその間にサックスの教則本を見ながら毎日フィンガリングを学び、サックスが戻ってきた時にはある程度の曲ならすぐに吹けるようになっていた。これがその後のやる気を推進する結果につながったんだ」。

これまで40年間、音楽制作活動を共に行ってきたドイツのレコード・レーベル、ECMのオーナー兼プロデューサー、マンフレート・アイヒャーとの出会いについて
 「ミュージシャンとしての私の人生において、ECMは、とても大きな意味を持つ。マンフレートと知り合うきっかけをもたらしてくれたのは、ジョージ・ラッセル(composer)だ。当時(1969年末頃)、私は、ラッセルのセクステットのメンバーとしてイタリアをツアー中で、イタリア北部のあるジャズ・フェスティヴァルに出演した。そこでマンフレートを紹介され、彼が新しいレーベルを立ち上げたばかりだと聞いたので、自分の演奏を収めたテープがあるのでそれをリリースする気はないかとこちらから持ちかけた。でも、彼はその私のオファーを断った。マンフレートは、自分の手によるレコーディング・テープを作ることを望んでいたんだ。「電話はしてこなくていい。こちらから連絡するよ」という彼の言葉を聞いた時、私は正直言ってもう連絡はないだろうと思った。ところが、それから半年ほどのちにマンフレートから手紙が来た。彼がオスロに来るので、私にバンドを結成して曲を準備して録音スタジオを押さえるように、と書いてあった。ミュンヘンから列車に乗ってやってきたマンフレートは、ダウンタウンであまり値段が高くないホテルを予約してくれと言う。私は彼のために宿を押さえた。想像してみてほしい。それは、“赤線地帯”にあるような、安いというよりもむしろひどいというべきホテルだった。そして、帰りも列車。彼は、とても大切なテープを膝に乗せて、ミュンヘンまで丸1日かかったんじゃないかな。すごい話だろう。(そのレコーディングは)彼にとってそれだけの値打ちがある投資のようなものだったんだろうね(笑)。これがECMに吹き込んだ私の最初のアルバム(『アフリック・ペッパーバード』1970年)で、国際的に良い評判を得て成功したのですぐに2枚目も作った。その関係がいまでも続いているという訳だ。すべてはジョージ・ラッセルとイタリアで行ったギグからはじまったのさ(笑)」。
---以上、先述のガルバレクのインタヴューCDより---

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「まるでバットマンのコミックに登場する悪役ジョーカーみたいな顔」とは、ケルンの新聞社の女性フォトグラファーの言葉。ガルバレクのサックスが奏でる美しい音色の秘密は彼の口元・アンブシュアにあるのか?
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ガルバレクの使用サックス:テナーは、青いロゴ入りのセルマー・マークⅥ。ソプラノは、ガルバレクのトレードマークにもなっているカーヴド・ソプラノ。レヴァークーセンのライヴでは、その2本をほぼ半々に使用していた。サックスのリードにかなり神経を使っている様子で、筆者が確認しただけでもサウンドチェックの時にソプラノのリードを2回、本番ライヴ中は、ソプラノとテナーのリードをそれぞれ1回づつ交換していた。また、指穴のないセリエ・フルート(ノルウエーの民族楽器)を使って、グルトゥのボイスパーカッションと掛け合いながらリズミカルな即興も披露した。
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その他の使用機材:レヴァークーセンのステージでは、アップル(Mac)のノートブックコンピューターとRME Fireface 400(高性能マイクプリアンプを備えたオーディオインターフェイス)も使っていた。Mac内に仕込んだエフェクトを使用しているのではないかと想像するが確証はない。これらのハイエンド機器をどのように使っているのか、プラグの差し込み方やMacのディスプレイに映ったアプリケーションを見てお分かりの方がいたら教えていただきたい。サックスの音を拾ったマイクの信号は、RMEとMacを経由したのち、ガルバレクの足元に置かれたBossヴォリューム・ペダルFV-50Hへと送られていた。これでエフェクト(あるいは全ての信号)の音量をコントロールしているのだろうか?
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コンサート終了直後のオーディエンス。やはり、と言うべきか、この日集まったファンの年齢層は高めだった。ジャズターゲのメイン会場フォーラムの天井には、音響を考慮して逆ピラミッド型のエレメントがいくつも取り付けられている。

最後に……
 ガルバレクは、このレヴァークーセンでのライヴの後、去る3月までドイツ国内31カ所をツアーした。そして、この2010年の年末も引き続きグルトゥを加えた自己のグループ(クアルテット)でスイスやハンガリーを演奏旅行するが、そのスケジュールの谷間となる9月と10月には、ヒリヤード・アンサンブルとの共演ツアーも行う。これは、今年、ECMから発売されることになっているガルバレクのヒリヤード・アンサンブルとの共演アルバム『Officium Novum』のお披露目興行で、ドイツやオーストリア、チェコ、イギリス、スイスなどを巡業することになっている。
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この記事関連のリンク集:
Jan Garbarek Group (ツアー・インフォメーション)
レヴァークーゼナー・ジャズターゲに関する記事(本サイトの第15回)
Leverkusener Jazztage website(ドイツ語)
ECMレコード
ジャズライフ

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by reijimaruyama | 2010-05-06 22:02 | Musician / Interview

 マイケル・ブレッカー(ts)亡きあとの現代のジャズ界において、そのサックス・シーンを牽引するもっとも重要な人物のひとりと言えるのがブランフォード・マーサリス(sax)である。素顔のブランフォードは、サックスのプレイと同様にとても多弁で自分の考えることをストレートに言葉で表す気さくな人柄。だが、それと同時に雑誌の取材にはあまり応じないタイプのミュージシャンでもある。筆者は、ジャズライフの記事のために、2009年5月18日にドイツ・フランクフルト市内のホテルに滞在するブランフォードを訪ねて2時間近くにおよぶロング・インタヴューを行った。
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Branford Marsalis
オランダのノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルでジョン・コルトレーンの『至上の愛』を演奏した時のブランフォード・マーサリス(2006年7月13日撮影)

 2009年3月にブランフォード・マーサリス・クアルテット(以下BMQ)名義でニュー・アルバム『メタモルフォーゼン』をリリースしたブランフォードは、この時までその新作に関する日本の雑誌からの取材を受けていなかった。さらに、これまで30年間演奏活動を共に続けてきた才能溢れる実力派ドラマーのジェフ・“テイン”・ワッツが新作発売後にバンドを脱退、そのため、新作のフォローアップ・ツアーとなるこの欧州遠征には弱冠18歳の新人ドラマーが急きょ参加する、という大変化もあった。ブランフォードにしてみれば「いろいろ話したい」状況だったに違いない。こちらにしてみればラッキーなタイミングだった。

 ブランフォードとの約束の時間は午後6時。彼は、その夜のライヴのために午後7時45分にホテルを出て、タクシーで会場に向かうことになっていた。だがインタヴューは予想以上に長引き、ブランフォードは、会場入りの時間が迫っても筆者の目の前で荷物を片付けたり歯を磨いたり、最後はステージ衣装に着替えながら話しを続けた。
  この時のインタヴューと、そのあとに行われたコンサート(新人ドラマー、ジャスティン・フォークナーが加入してのライヴ)の記事は、ジャズライフ2009年7月号に掲載されたが、即興的な会話も多かったブランフォードのロング・トークをその記事の中にすべて書き込むことは到底不可能だった。取材の録音ディスクを文字に起こしてみると、なんとそれは編集部から指定された文字量の約6倍もあったため、その原稿は大幅に削る必要があったのだ。冒頭で述べたように、ブランフォードはめったに雑誌の取材に応じない。当然ながら、ファンが彼のインタヴュー記事を目にする機会は少ない。あまり聞くことの出来ない彼自身の言葉を筆者のパソコンに封印しておくのはもったいない。もちろん、この取材で集めた“おいしいところ”は、ジャズライフに掲載されているが、ブランフォードの人となりを垣間見せてくれるものはまだ他にもある。そこで、ジャズライフに収めきれなかった未発表の部分を可能な限りここで紹介する。
 1960年8月26日、ニューオリンズ生まれのサックス・マン、ブランフォード・マーサリスのロング・トーク。文字通り長文であることを最初におことわりしておいた方が良いかもしれない。
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Branford Marsalis Quartet 2009
2009年5月18日にフランクフルトで行われたライヴのショット。ちなみにこのあとの写真はすべてこの日に撮影したもの。

ブランフォード・マーサリスのロング・トーク&そのあとに行われたライヴ >>
by ReijiMaruyama | 2009-06-30 23:04 | Musician / Interview

 2005年のノース・シー・ジャズ・フェスティヴァル(オランダ)にステップス・アヘッドが出演した。4本マレットを使うヴァイブラフォン奏者マイク・マイニエリをリーダーとするこのバンドのライヴは、事前のメンバー発表によればマイニエリ以下、マイク・スターン(g)とマイケル・ブレッカー(ts)というフロント組が、スティーヴ・スミス(ds)とリチャード・ボナ(b)のリズム隊をバックに共演するということで期待していたのだが……。
 70年代末に“ステップス”という名前で活動を開始してから四半世紀という長い歴史をもつこのバンドは、これまでメンバーが数多く入れ代わっても、マイニエリとブレッカーのコンビが“看板”だった。ところがなんと、この時はマイケルが欠けてしまった。マイケルは、その夏のヨーロッパ・ツアーを目前に控えた6月にニューヨークで行なわれたステップス・アヘッドのコンサート直前になって病気のためにリタイヤ。そのため、ビル・エヴァンス(ts,ss)が急きょ代役を務めることになったのだ。マイケルが患ったのは、「骨髄異形成症候群」という血液がんの一種で白血病に進行することも多い深刻な病気だった。
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Michael Brecker 2004年7月10日ノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルで最後に見たマイケル

 現代ジャズ・サックスの最高峰と言われていたマイケル・ブレッカーは、その時からツアーの予定をすべてキャンセルして闘病生活に入った。1年後にはハービー・ハンコックのステージに飛び入り演奏するなどして容体は回復に向かっているとの報もあったが、病を克服するためには彼と完全適合する骨髄の移植手術が必要だった。その骨髄提供者(ドナー)をなんとか探し出そうと、マイケルの家族や友人、大勢のファンらが尽力するが、その努力も実らず、マイケルは、2007年1月13日に白血病のため他界してしまった。

印象に残るマイケルの言葉
 マイケルを最後に見たのは、その前年、2004年7月の同ジャズ祭に彼が3日間出演して大活躍した時だった(上の写真)。マイケルは、オランダのコンサヴァトリー(音楽学校)の学生達と一緒にクインデクテット(5管やストリングス・クァルテットなどを含む15ピースのバンド)でプレイし、アコーディオンやバンジョー、サンプラーなどを使ったオランダのモダン・クリエイティヴ・フリー・ジャズ・バンドのファーマーズ・マーケットとも共演。そして、ジェフ・ティン・ワッツ(ds)、クリス・ミン・ドーキー(b)、ジョーイ・カルデラッツオ(p)を従えた自己のクアルテットやソロ(独奏)・コンサートも披露し、さらにサックス・ファンを前にしてワークショップ(クリニック)まで行うという充実ぶりを見せていた。「ここ最近半年間ぐらいは、ニューヨークに住むブルガリア人のヴァイオリニストからブルガリアのフォーク・ミュージックを学んでいるよ」と筆者に打ち明けてもくれた。その時、「いまでも新しいことを学んでいるマイケルは、まだ50代でこれからますます円熟して行くだろう」と思わせてくれたのだ。
 そのジャズ祭のワークショップでマイケルが語った言葉の中に、いまでも印象に残っているものがある。それは、作曲について質問があった時に言ったこと。「曲のアイデアがあったら、そのまま放っておかないで“とりあえず”でもかまわないから最後まで仕上げた方がいい。そうしないと机の引き出しの中が未完成のアイデアだらけになってしまうよ(笑)」というものだ。筆者は、それを聞いた時に「“とりあえず”なんて、そんなやり方で良い音楽が作れるだろうか。良いフィーリングが浮かんでこない時に無理して曲を最後まで仕上げる必要なんてないのでは?」と思った。しかし後になってマイケルの重い病のことを知らされると、あの時の彼の言葉は、すでに自分の病に気づき、あるいはひょっとしたら、自分の死期がそう遠い先のことでないかもしれないとまで悟った上でのレクチャーだったのか、とも思えてくる。「人生、いつどうなるかわからない。いまできることを最後までやりなさい」ということをマイケルは暗に言いたかったのではないか、と。

マイケル・ブレッカー&パット・メセニー・スペシャル・クアルテット
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Michael Brecker & Pat metheny Special Quartett with Bill Stewart(ds/left) and Larry Goldings(org/right)

 こちらの写真は、2000年7月14日のノース・シーのステージ。この年の夏はパット・メセニーとスペシャル・クァルテットを組んでヨーロッパをツアーした。ドラムはビル・スチュワート(写真左)、オルガンがラリー・ゴールディングス(同右)というベースレスのバンドだった。

そのライヴの後でラリー・ゴールディングスに聞いた
——オルガンのペダルでベーシストの役目も果たすあなたは、演奏中とても忙しそうですね?
ラリー・ゴールディングス(以下LG):忙しいけど楽しいよ(笑)。でも「ここでベーシストがいてくれたらなぁ」と思うことが時々あるのも事実だね。それにピアノを弾きたくなることもあるよ。だけどこの編成(ベースレス)では、ピアノでベース・ラインまでカヴァーするのはちょっとキビシイ。だからペダル・ベースが必要なんだ。
——マイケルについて一言お願いします。
LG:マイケルは天才だよ。彼は僕のフェイヴァリット・ミュージシャンのひとりなんだ。僕は、以前からジェイムス・テイラーやポール・サイモンのアルバムなどでマイケルの演奏を聴いていた。でも彼と一緒にプレイできるなんて思ってもみなかった。その頃はマイケルのことをポップ・サックス・プレイヤーとして聴いていたんだ。自分とは違ったシーンにいる人だと思っていたんだよ。
——パット・メセニーについてはどうですか?
LG:僕にとっては、パットは、マイケルと共にもう1人のヒーローだ。僕がジャズに興味を持ちはじめたのは12歳ぐらいの時からだけど、パットの音楽はそれよりもっと前から聴いていた。だからこのバンドは、僕にとっては、まさに“ドリーム・カムズ・トゥルー”なんだよ!

ブレッカー・ブラザーズ
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Brecker Brothers The Return of the Acoustic Band

 2001年7月15日、ブレッカー・ブラザーズ・アコースティック・バンドでノース・シー・ジャズ祭の最終日に出演。この時は、兄のランディー・ブレッカー(tp)、弟マイケル、デイヴ・キコスキー(p)、ピーター・ワシントン(b)、カール・アレン(ds)というメンバー。

ディレクションズ・イン・ミュージック
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Directions in Music Celebrating Miles Davis & John Coltrane
Herbie Hancock/Michael Brecker/Roy Hargrove


 60年代の中期、ハービー・ハンコック(p/1940年生まれ)は、マイルス・デイヴィスのクインテットでプレイしていた。マイケル・ブレッカー(ts/1949年生まれ)は、その頃、多感な10代でマイルスやコルトレーンのレコードを愛聴していた。そして、ロイ・ハーグローヴ(tp)が産声を上げた時(1969年)には、ジャズの偉人コルトレーンはすでにこの世を去り、マイルスはエレクトリック化への新たな旅立ちをはじめていた。ジャズの世界では祖父、父親、息子のような3世代のミュージシャン、ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローヴの3人は、2001年の秋にジョン・パティトゥッチ(b)とブライアン・ブレイド(ds)をバックに、マイルス&コルトレーン生誕75周年企画ライヴをトロントで行い、それをレコーディングしたアルバム『ディレクションズ・イン・ミュージック~マイルス&コルトレーン・トリビュート』を2002年5月にリリース。そしてその夏、ジョージ・ムラーツ(b)とウィリー・ジョーンズⅢ(ds)というリズム隊ふたりを加えてヨーロッパをツアーした。写真(上と下)は、2002年7月12日、ノース・シーの初日に出演した“ディレクションズ・イン・ミュージック”のステージ。
 そのライヴは、前述のアルバム収録曲を中心に進み、最後は“未解決”の雰囲気を持つチューンで終了。それはまるで、完結すると思って観ていた最後の最後に“つづく”の3文字を見せられたような、マイルスとコルトレーンの音楽は「永遠につづく」とでもいうような見事なカット! マイルスとコルトレーンに対するハービーとマイケル、ハーグローヴらの愛情の深さを感じさせてくれる上質のライヴだった。マイケルが行った「ナイーマ」独奏では、どっしりとした太い低音、つやのある中音、それにハイ・トーンのフラジオが唸り、途中でこれは究極のスケール練習か? と思わせるような素早い登り下りのパッセージや微妙なビブラートで見事にコントロールされたしっとりトーンなどをたっぷりと堪能させてくれた。
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 マイケルが死の直前まで制作作業を続けて完成させたという遺作アルバムは、彼が残した作品の中でも最高傑作との評価を得てグラミー賞も受賞した。
 そのタイトルが『聖地への旅』(原題:Pilgrimage)というのは、なんともファン泣かせである。

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by ReijiMaruyama | 2008-05-15 13:03 | Musician / Interview

第7回:本家本元

c0182910_11342073.jpg アフロ・ビートの元祖といわれるフェラ・クティ(1997年没)を父に持つフェミ・クティ。父の没後10年という区切りの年となった昨年も夏のヨーロッパ・ツアーを行ったが、これまでにも父の残した遺産を引き継いで各地でアフロ・ビートの嵐を巻き起こす精力的な活動を続けてきている。






Femi Kuti




2003年7月11日、オランダで行われたフェミ・クティのライヴ


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     激しいライヴで水分補給は重要!  得意の循環呼吸奏法も観せる

c0182910_115379.jpg 地元ナイジェリアのラゴスでは4時間のショーがあたりまえというフェミ・クティ。この日はオランダのノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルに出演したが、数多くのアーティストのプログラムが組まれたジャズ祭では各ステージの演奏時間にも限りがある、ということでフェミの持ち時間も普段の半分以下。ところが、そのステージは相変わらずのハイ・テンションで、それを受けた会場も「これが4時間続いたらいったいどうなるのか」と言いたくなるほどの盛り上がりを見せていた。
 フェミは、客席から見て舞台の中央やや右寄りでキーボードを弾き、アルトとテナーとソプラノ・サックス、それにトランペットをとっかえひっかえ演奏しながら、政治色の濃い歌詞を本家本元のアフロ・ビートに乗せて汗まみれで歌い踊る。上半身裸になって筋肉隆々の厚い胸板を見せながらサックスの循環呼吸奏法で会場を盛り上げる場面は圧巻だ。
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 その主役の熱いパフォーマンスを支えるのは総勢14人のバンド、ポジティヴ・フォースである。トランペット、フリューゲル、トロンボーン、テナー&バリトン・サックスという5人のホーン・セクションがブリブリとアンサンブルを吹き鳴らし、コンガとボンゴを中心にセットしたパーカッション2名が強烈なクラーベを叩き出し、ギター、キーボード、ベース、ドラムもひたすらグルーヴ。さらにシンガー兼ダンサーの女性3人がフロントで腰を振りながら歌う、というにぎやかなもの。
 ノース・シーで観たフェミ・クティのライヴ、それは75分間の大熱演による大汗にまみれたハイ・テンションのステージだった。

ポジティヴ・フォースのシンガー兼ダンサーの3姫
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笑顔を振りまきながらカラバスやクラーベ、シェイカーなどを鳴らし歌い踊る
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    褐色の肌に鮮やかなアフロ・カラーのステージ・コスチュームが映える

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by ReijiMaruyama | 2008-04-03 15:38 | Musician / Interview

 タイトルだけ見て「ファンキー・ポップスやってるあの娘のことか」なんて思った人は大間違い。今回登場するのは、そのルックスとは裏腹の、ごっつい剛腕プレイによるハイ・エナジー・バップを聴かせてくれるティネカ・ポスマである。卓越したテクニックと“男らしさ”を感じるそのプレイ。何も知らずに音だけ聴いたら、演奏しているのが女性だとは誰も気がつかないだろう。
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Tineke Postma

 ティネカ・ポスマ(Tineke Postma)は、1978年8月31日にオランダ北部の静かな町ヘーレンフェンで生まれた。幼い頃からジャズの美しいメロディに心を引かれ、8才でフルート、10才でアルト・サックスを吹きはじめる。アムステルダム音楽院で学んだ後、22才の時に奨学金を得てニューヨークのマンハッタン・スクール・オブ・ミュージックに半年間留学。2003年、ファースト・アルバム『First Avenue』をオランダのレーベルから発表してアメリカでも好評を得る。2005年10月、ソロ2作目の『フォー・ザ・リズム』がフィフティ・ファイヴ・レコードから発売されて日本デビュー。昨年夏にはサード・アルバム『ジャーニー・ザット・マターズ』をリリースした。また、2005年の夏(チャーリー・パーカーの誕生日)にアムステルダムで収録されたライヴDVDもヨーロッパで発売されている。

ティネカから日本のジャズ・ファンへのメッセージ
 2005年7月9日、オランダのデン・ハーグで開催されたノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルの2日目にテリ・リン・キャリントン(ds)をフィーチャーした自己のクインテットで出演したティネカを取材した。写真はその日に撮影したものである。「日本の雑誌のインタヴューを受けるのは初めて」と言いながら語ってくれた彼女の話は、同年のジャズライフ11月号に掲載された。ここではその誌面に収まりきらなかった部分を少しだけ。

――あなたはアルトの他にソプラノもプレイしますね。昨日(ジャズ祭初日)、アンネ・クリス(オランダの女性シンガー)のライヴをサポートするあなたの演奏を拝見しましたが、あなたがソプラノで最初の1音を出した瞬間に「おおっ!」と思いました。そんな風に感じさせてくれるプレイヤーは少ないですよ。
ティネカ・ポスマ(以下TP):(笑)ありがとうございます。これまで16年間吹き続けているアルトが私のメインですが、ソプラノも大好き。いまから4年前、それまでとは何か違った別のものを試したくなってソプラノも吹きはじめたんです。最近のコンサートでは、アルトとソプラノを7:3の割合で使っています。
――ソプラノはアルトよりもサイズが小さいので演奏も楽なんでしょうか?
TP:いいえ。実際にはソプラノの方がチューニングが大変。同じ指使いでもアルトとは出てくる音が異なるし、演奏テクニックも、ブローイングやアンブシュアなど、口元のセッティングのすべてが変わってきます。だから私は、アルトとソプラノをまったく別の楽器だと思って吹いています。ソプラノで演奏する時はフリーなスタイル、アルトでは自然とビ・バップやハード・バップのスタイルになりますね。
――日本のジャズ・ファンに何か伝えたい事はありますか。
TP:私はまだ日本に行った事がないんです(注:彼女はこの年の暮れに初来日をはたした)。でも素晴らしいジャズ・マインドを持った日本のジャズ・ファンのことは数多くの人から聞いて知っていますよ。みなさん、いつまでもその気持ちを忘れないでください!
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by ReijiMaruyama | 2008-03-31 02:53 | Musician / Interview

 4~5才頃にピアノを弾きはじめたメイシオ・パーカー。両親は教会でゴスペルを歌い、伯父は地元のブルース・バンドで活躍するという音楽一家に育った。小学校時代に、トロンボーンを吹く1つ年上の兄と、ドラムをプレイする1つ下の弟メルヴィン、それにいとこらを加えてバンドを結成して伯父が出演するクラブで演奏活動を開始。マーチング・バンドの行進に憧れて12才でアルト・サックスを手にし、さらにハイスクールでテナー・サックスをプレイするようになる。そしてフルートも吹きはじめたカレッジ時代、1962年のある夜、弟メルヴィンが地元のナイト・クラブで演奏していると、ジェイムス・ブラウン(vo)が食事を取るためにその店へふらりとやってきた。
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Maceo Parker

さて、ファンクの帝王JBは……
 まだカレッジの学生だったメルヴィンのドラムの音に惚れ込んだファンクの帝王JBは、「オレのバンドに入る気になったら訪ねてこい。お前ならいつでも雇ってやる」とメルヴィンに言い残してクラブを後にする。この時メイシオは、別の場所でギグを行なっていたのでその場には居合わせなかったが、その1年半ほど後の64年に弟メルヴィンの紹介でメルヴィンと共にJBのバンドに加わることになる。JBは、初対面のメイシオに「バリトン・サックスを持ってるか?」と聞いた。その時、「はい、持っています!」と答えたメイシオは、実はバリトンを持っていなかったが、何とかそれを工面してめでたくJBバンドのメンバーとなり、65年にJBの「Papa's Got a Brand New Bag」でバリトン&テナー・サックスを吹いて初レコーディング。以来、約20年間に渡って帝王の“お気に入りホーン・プレイヤー”として活躍した。この間に彼のサックスは、バリトンからテナー、そしてアルトへとサイズが縮まり、いまでも時々フルートをプレイする以外は、アルト一本槍である。

 メイシオ・パーカーは、ノースカロライナ州キンストン生まれ、現在もキンストン在住。昨年は、ドイツのWDRビッグバンドと共演したソロ14作目となるライヴ・アルバム『ルーツ・アンド・グルーヴズ』を発表した。今年のバレンタイン・デーに65回目の誕生日を迎えたメイシオは、今日も精力的なライヴ・パフォーマンスを観せてファンの腰を揺らし続けている。名実ともにファンク・ホーンの第1人者である。

 今から8年ほど前の2000年7月30日にドイツ・ルール工業地帯の小都市ボッフム(Bochum)でコンサートを行なったメイシオ。そのライヴの2時間ほど前に撮影したのが上の写真。この時のインタヴューの内容は、同年末に発売された雑誌「JAZZ HORN 2001」(ジャズライフ別冊)に掲載されたが、ここではその誌面に収まりきらなかった話を最後にひとつだけ。

メイシオが70歳を祝うコンサートでプレイするバラード!?
――あなたの人生はサキソフォンとファンキー・ミュージックで明け暮れているんですね?
メイシオ・パーカー(以下MP):その通りだよ(笑)。
――ハービー・マン(fl)は、今年70歳になりましたが、つい最近ヨーロッパをツアーしたんです。
MP:本当かい!? ふぅーん(と感心している様子)。
――あなたは現在57歳ですが、70歳の自分を想像出来ますか? いまから13年後です。
MP:君にそう言われて自分の年を実感したよ(笑)。そうだなぁ…。その時に体力的な限界が来ちゃっていたらどうしようもないが、ファンの要望があってライヴのチャンスが与えられる限りはプレイし続けていたいね。
――「メイシオ・パーカー70歳を祝う」というコンサートが行なわれる時は観に行きます(笑)。
MP:(笑)その時は、ホリデイ・イン(ホテル)みたいなところでドラム/ベース/ピアノのトリオをバックにバラードでもやろうかな。(そう言って指を鳴らしながらスローなスウィング調で歌いだす) ♪Shake everything you've got~♪ ってな感じで。ハハハハッ!

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by ReijiMaruyama | 2008-02-16 14:45 | Musician / Interview

 ジャズの歴史を変えたマイルス・デイヴィス(tp)のアルバム『ビッチェス・ブリュー』(1970年)で、バス・クラリネットを吹いて重要な役割を演じたベニー・モウピン(ts,ss,b-cl)。そして、そのアルバムで音楽的な鍵を握っていたキー・パーソンとも言えるジョー・ザヴィヌル(kb)が、後にウェイン・ショーター(ts,ss)と共に結成したウェザー・リポートにジャコ・パストリアス(b)の後釜として1982年に参加して一躍脚光を浴びたヴィクター・ベイリー(b,vo)。2人はカリフォルニアに住んでいる。
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Bennie Maupin & Victor Bailey

 ドイツ・デュッセルドルフで毎年初夏に行なわれるJazz Rally(ジャズ・ラリー)。ライン川沿いに広がる旧市街を中心にデュッセルドルフ市内がジャズで溢れかえる3日間のジャズ・フェスティヴァルである。2006年6月2日、14回目を数えたそのジャズ祭の初日にヴィクターのグループが出演した。写真はその時のライヴ。
 2001年10月にドイツのレヴァークーセンではじめてこの2人の共演を観た時、ライヴの後でヴィクターにインタヴューを行い、その話の中でベニーについて尋ねると次のような答えが返ってきた。
 「ベニーは『ビッチェズ・ブリュー』でプレイしたレジェンドだ! 僕はハービー・ハンコック&ヘッド・ハンターズなどを聴いて育ったけど、その頃のベニーは僕のアイドルだった。サックスでコンテンポラリー・ジャズをプレイするとなるとマイケル・ブレッカー(ts)やデイヴィッド・サンボーン(as)みたいに吹くやつが多いけど、ベニーのトーンは他の誰のものでもない。僕は、以前住んでいたNYからLAに引っ越したおかげでベニーと一緒に活動する機会が増えた。これはとてもラッキーなことだよ」。
 デュッセルドルフのステージでも2人の気心が知れた様子が見て取れた。

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by ReijiMaruyama | 2008-02-14 05:12 | Musician / Interview