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 さすがに21世紀を生きる若者らしくズボンのベルトの位置が70年代と違ってかなり下の方ではあるが、これで髪の毛をのばしてフレットレスのフェンダー・ジャズベースを持ったらお父さんにそっくり。今回は第5回:ジョナス・エルボーグの記事の最後の方でちょっと触れた“背高ノッポのベーシスト”である。さて、彼はいったい誰だろう?
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Who is this bass player?

背高ノッポのベーシスト、フェリックス・パストリアスへのインタヴュー
 鋭いベース・ファンならすでに察しはついていたかもしれない。彼の名はフェリックス・パストリアス(Felix Pastorius)。1976年にアルフォンソ・ジョンソン(b)の後任としてウエザー・リポートに参加し、自らの手でフレットレスに改造したフェンダー・ジャズベースを使った独特のトーンとそれまで誰も成し得なかった高度な演奏技術でエレクトリック・ベース界に大革命を起こした天才ベーシスト、ジャコ・パストリアス(1951年12月1日生~1987年9月21日没)の息子である。

 1982年の夏、ウエザー・リポートを脱退した直後にジャコは、総勢21人からなる自己のバンド“ワード・オブ・マウス・ビッグバンド(ジャコ・パストリアス・ビッグ・バンドとも呼ばれる)”を引き連れて来日した。その時のコンサートは録音されて『TWINS Ⅰ&Ⅱ』という2枚組のアルバムになっているが、このタイトル(TWINS = “双子”の意)は、来日直前(6月9日)に生まれたジャコの双子の息子、ジュリアスとフェリックスの誕生を記念してつけられたものだ。

 天才ジャコのDNAを受け継ぐジャコの子どもは、この世に4人存在する。ジャコの最初の妻トレイシーとの間に生まれたメリーとジョン(3つ違いの姉弟)は、ジャコのソロ2作目『ワード・オブ・マウス』(81年)に収録された曲「ジョンとメリー」に幼いヴォーカルで参加した。メリーは、現在シンガーとして音楽活動を行っており、ジョンもメリーのアルバムにドラムで参加しているらしい。
 2番目の妻イングリッドとの間に生まれた双子は、現在マイアミで way of the groove というバンドを組んで活動している。兄のジュリアスがドラム、弟のフェリックスがベースだ。ちなみに、ジャコはベースに転向する前はドラマーで、ジャコの父親ジャック・パストリアスも元ドラマー、そしてジャコの甥デイヴィッド・パストリアスはベーシストである。パストリアス家にはリズム・セクションの血が流れているみたいだ。生前のジャコの口癖に「レディース&リズム・セクション・ファースト」というのがあったそうだ。「音楽の土台を支えるドラマーやベーシストを女性と同じくらい大切に扱おう」という意味のジャコ流の洒落たフレーズだ。
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Jonas Hellborg & Felix Pastorius
フランクフルトのメッセ会場でジョナス(左)とツー・ショット。フェリックスは父ジャコも大好きだったジミ・ヘンドリックスのTシャツを着ている。

 さて、2007年3月29日にフランクフルト・ムジークメッセの会場でジョナス・エルボーグ(b)と共にデモ演奏を行っていたフェリックスにインタヴューすることができたのでここで紹介したい。“世界最高のベース・プレイヤー(The World's Greatest Bass Player)”と自ら称し、自他ともにその天才ぶりを認めた父ジャコと同じ楽器を演奏するのはどんな気持ちだろう。フェリックスに質問をぶつけてみた。


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父のベース・ソロを細かく1音1音コピーした曲もある
——お父さんがメンバーだった時のウエザー・リポートのコンサートを東京で観たんです。1980年、あなたが生まれる2年前です。
フェリックス・パストリアス(以下FP):そのライヴでは「スリー・ヴューズ・オブ・ア・シークレット」を演奏したのかな?
——バンドは最初からものすごい勢いでした。1曲目の「ブラック・マーケット」がはじまると、お父さんはベースの1弦3フレットのあたりを使ってあのベース・ラインを強烈に弾きはじめたのです。それを見て「ベースってあんなポジションでバッキングしてもいいのか!?」と目を丸くしてしまいました。その後はもう圧倒されっぱなしで、いまとなっては、お父さんが1曲ドラムを叩いたこととベースを弾く時の姿があまりにも格好良かったこと、それぐらいしか記憶にないです。
FP:(笑)なるほどね。
——「スリー・ヴューズ~」は、お父さんがあなたのお母さんに捧げて書いた曲で、原題はお母さんの名前「イングリッド」だったそうですね。
FP:うん、僕も母からそう聞いている。
——素晴らしい曲ですね。お父さんはベース奏者としてだけでなく作曲者としても優れていました。
FP:僕もそのことを言いたい。父の驚異的なベース・プレイは、父が残した素晴らしい音楽の一部分だと思う。ベースの奏法に限って言えば、僕はもっとロック的なレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーとかプライマスのレス・クレイプルなどのプレイを聴いているよ。
——その2人はスラップ奏法が得意ですよね。
FP:だから僕もスラップをたくさんやる。父はあまりやらなかったよね(笑)。
——お父さんの演奏を真似してみた事はありますか。
FP:もちろんあるよ。すべてじゃないけど、父のベース・ソロを細かく1音1音コピーした曲もある。僕にはそれを避けて通る事は出来なかった。

ベース奏者は音楽をコントロールする権限を与えられている
——偉大なミュージシャンだったお父さんと同じ楽器をプレイするというのはどんな気持ちですか。
FP:人々が“ジャコの息子”という見方で僕に接してくる事はあまり気にならない。でも、僕のプレイに“ジャコ”を期待する人が多いのも事実だ。そういう人たちの気持ちはわからないでもないけど、これは正直言ってつらいよ。僕は音楽が好きでベースを弾くのが楽しいだけ。僕の演奏を観た人が不満を感じたとしても、申し訳ないけど僕にはどうすることも出来ない。
——ベースの魅力って何でしょう?
FP:ベース奏者は音楽をコントロールする権限を与えられていると思う。他の楽器がプレイしやすいように音楽を支えるのがベースの役目であり、それが魅力なんじゃないかな。
——音楽の“鍵”をベースが握っている、と?
FP:その通り。ベースの動き方次第で曲のキー(調)やリズムなどすべてが変わってくるからね。
——あなたはどのようなミュージシャンでありたいと思っていますか。ベーシスト、トータル・ミュージシャン、それともコンポーザー? 
FP:本音を言うと自分でもまだわからない。他のミュージシャンと演奏するのは楽しいし、そこから新しい感覚を得ることもできる。作曲もフィーリングを重視しながらやっているよ。僕の兄(ジュリアス)は素晴らしいドラマーで、僕らはギターとサックスを加えたバンドを組んでいるんだ。
——そのバンドではどんな曲を演奏するんですか?
FP:ハービー・ハンコック(p,kb)やウエザー・リポート、それに父の曲もたくさんプレイする。でも、すべて独自のアレンジでやっているから、僕らの曲だと勘違いする人も多い(笑)。
——先ほどのデモ演奏でワーウィックの6弦ベースを弾いてましたが、あれがあなたのメイン・ベースですか。
FP:いや、あれは借り物。僕のメインはこの5弦ベースだ(と言って見せてくれたのが下の写真の黒いベース)。フレットはついている。5弦ベースというとローB(低音弦)が張られているものが多いけど、僕はハイC(高音弦)を加えた。これでテナー・サックスの音域が出せるんだ。高い音を使ってコードを弾いたりもする。でも、ソロを弾く時にあまり高音でやりすぎないように注意しているよ(笑)。
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“Lauricella Custom Guitars”というロゴがヘッドに入ったフェリックスの5弦ベースは、ジャズベースを基にして製作されたカスタム・メイド。フレットレス・ベースのように丸みを帯びたサウンドが狙いか、黒いフラットワウンド弦が張られていた。

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# by ReijiMaruyama | 2008-06-20 20:48 | Musician / Interview

 「あのことがなければ現代のような音楽の発展はなかったんじゃないか」という問い方が、カサンドラに対してかなり無骨な言い方であることは承知の上だった。1996年11月30日、デュッセルドルフでコンサート前のカサンドラ・ウイルソンを宿泊先のホテルに訪ねてインタヴューした時のことである。「アフリカの影響こそアメリカの音楽に固有のもの」と言うカサンドラの言葉を受けた筆者は、「あの悲しい歴史を唯一良い方に解釈するとすれば」と断りを入れた上で、あえて黒人奴隷制度にふれた先の質問を投げかけてみた。案の定カサンドラは、それに対してすかさず言い返してきた。「私たちはひどい仕打ちを受けたのよ。私たち黒人の中に重くのしかかっているのは、その暗く痛みに満ちた歴史なの」と。しかし、こちらの言わんとすることもわかってくれたのか、さらに次のような言葉を続けた。
 「でも…、その“痛み”の裏返しによって私たちはこれまで“美”を創造し続けることができたとも言えるわ」。
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Cassandra Wilson 2005年7月8日撮影

 いまでこそ名実共にアメリカの女性ジャズ・ヴォーカル界を代表するという地位を得たカサンドラだが、当時はまだ日本でも彼女の人気に火がつきはじめた頃だった。ブルーノートにレーベルを移して発表したアルバム『ブルー・ライト』(93年)に続く新作『ニュー・ムーン・ドーター』(95年)が好評で、そのアルバムで96年度のグラミー賞(ベスト・ジャズ・ヴォーカル・パフォーマンス)を受賞するちょっと前。ツアー中にドイツでテレビのトーク番組に出演するなど積極的なプロモーションを行っていたが、その彼女のインタヴューを取るのはなかなか厳しいとも聞いていた。しかしカサンドラは、この日のスケジュールがタイトになってきているにも関わらず、約束していた予定の時間をオーバーしながらこちらの質問にていねいに答えてくれた。

なぜ、そして何のためにあなたは音楽で表現するのですか?
 「私がなぜ音楽をやってるのかって? それ以外に方法がないからよ(笑)。他にチョイスがなかったの。小さい頃から私の周りに音楽が溢れていて、それは生活の一部だったのよ。クラシックも学んだし、父はギタリストでジャズを愛していた。母はモータウンが大好きで、兄弟はダンスが上手(笑)。私はカントリー、ブルース、フォークとかいろんな音楽を聴いて育ったの。それらひとつひとつのものが集まっていまの私の音楽を形成しているのよ」。
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ライヴでリラックスしてくるとステージの上でかかとがぺたんこのクツを脱ぎ捨てて裸足になる 2003年7月12日撮影

 聴く側だけでなく演奏する者の心も捕らえて離さないジャズの醍醐味は“即興”である。そしてそれは、楽器だけでなく歌についても同じだ。カサンドラもステージでどう歌うかということは前もって決めないという。「単調なのは嫌いなの。大変だけどいつもできるだけフレッシュにやるようにしているわ。昨日何マイルも離れた街の人たちの前でやったことと同じことなんて、やりたくないし出来ない。今夜のコンサートに来る人たちは、昨日コンサートに来た人たちとは違ったムードを持ってくるでしょう。日も違うし、今日は雨も降っているわ。人々のヴァイブレーションや、きめの細かさとか匂いや色といったものには、それぞれの街によって独特のものがあるの。だから私はコンサートの度に街へ出て、そこの人たちから得たムードをその日の歌に反映させるのよ」。

デュッセルドルフの聴衆をがんじがらめにした深みのある歌声
 その夜、カサンドラのライヴをはじめて観た。彼女が登場して歌い出すと、その瞬間にホールの空気が一変。聴衆は息をするのもはばかるようにしてじっと聴き入っている。まるでカサンドラの歌にがんじがらめにされているかのようだ。後にも先にもこのことが一番強く印象に残っている。しかしそんな重苦しい雰囲気の中で、蛇ににらまれたカエルのようにいつまでもじっとしていたら誰だって苦痛だろう。カサンドラもそれを承知しているようで2~3曲歌い終えると、「もうコンバンワってご挨拶したかしら?」などと言いながら笑顔を見せて観客の気持ちを和らげることも忘れていなかった。

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このページの写真は、いずれもオランダのノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルに出演した時のステージから この3枚は2002年7月14日撮影c0182910_4252396.jpgc0182910_4255714.jpg
 西アフリカ・ガーナのアシャンティ部族のことわざに「新月(New Moon)は病を治癒する」というのがあるそうだ。自由な発想とその独特の歌唱力により創り出されるカサンドラ・ウイルソンの音楽には、いわゆるヒーリング・ミュージックとはまた違った実に深い空間が存在している。それを一言でいうと、「思いっきり黒っぽい」。そして、それが何年経っても変わらない。彼女のように、自分らしさを追求し、それを前面に押し出した活動を続けるということは、すべてのアーティストが理想とするものであるにちがいない。

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# by ReijiMaruyama | 2008-06-03 10:23 | Musician / Interview

 2005年のノース・シー・ジャズ・フェスティヴァル(オランダ)にステップス・アヘッドが出演した。4本マレットを使うヴァイブラフォン奏者マイク・マイニエリをリーダーとするこのバンドのライヴは、事前のメンバー発表によればマイニエリ以下、マイク・スターン(g)とマイケル・ブレッカー(ts)というフロント組が、スティーヴ・スミス(ds)とリチャード・ボナ(b)のリズム隊をバックに共演するということで期待していたのだが……。
 70年代末に“ステップス”という名前で活動を開始してから四半世紀という長い歴史をもつこのバンドは、これまでメンバーが数多く入れ代わっても、マイニエリとブレッカーのコンビが“看板”だった。ところがなんと、この時はマイケルが欠けてしまった。マイケルは、その夏のヨーロッパ・ツアーを目前に控えた6月にニューヨークで行なわれたステップス・アヘッドのコンサート直前になって病気のためにリタイヤ。そのため、ビル・エヴァンス(ts,ss)が急きょ代役を務めることになったのだ。マイケルが患ったのは、「骨髄異形成症候群」という血液がんの一種で白血病に進行することも多い深刻な病気だった。
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Michael Brecker 2004年7月10日ノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルで最後に見たマイケル

 現代ジャズ・サックスの最高峰と言われていたマイケル・ブレッカーは、その時からツアーの予定をすべてキャンセルして闘病生活に入った。1年後にはハービー・ハンコックのステージに飛び入り演奏するなどして容体は回復に向かっているとの報もあったが、病を克服するためには彼と完全適合する骨髄の移植手術が必要だった。その骨髄提供者(ドナー)をなんとか探し出そうと、マイケルの家族や友人、大勢のファンらが尽力するが、その努力も実らず、マイケルは、2007年1月13日に白血病のため他界してしまった。

印象に残るマイケルの言葉
 マイケルを最後に見たのは、その前年、2004年7月の同ジャズ祭に彼が3日間出演して大活躍した時だった(上の写真)。マイケルは、オランダのコンサヴァトリー(音楽学校)の学生達と一緒にクインデクテット(5管やストリングス・クァルテットなどを含む15ピースのバンド)でプレイし、アコーディオンやバンジョー、サンプラーなどを使ったオランダのモダン・クリエイティヴ・フリー・ジャズ・バンドのファーマーズ・マーケットとも共演。そして、ジェフ・ティン・ワッツ(ds)、クリス・ミン・ドーキー(b)、ジョーイ・カルデラッツオ(p)を従えた自己のクアルテットやソロ(独奏)・コンサートも披露し、さらにサックス・ファンを前にしてワークショップ(クリニック)まで行うという充実ぶりを見せていた。「ここ最近半年間ぐらいは、ニューヨークに住むブルガリア人のヴァイオリニストからブルガリアのフォーク・ミュージックを学んでいるよ」と筆者に打ち明けてもくれた。その時、「いまでも新しいことを学んでいるマイケルは、まだ50代でこれからますます円熟して行くだろう」と思わせてくれたのだ。
 そのジャズ祭のワークショップでマイケルが語った言葉の中に、いまでも印象に残っているものがある。それは、作曲について質問があった時に言ったこと。「曲のアイデアがあったら、そのまま放っておかないで“とりあえず”でもかまわないから最後まで仕上げた方がいい。そうしないと机の引き出しの中が未完成のアイデアだらけになってしまうよ(笑)」というものだ。筆者は、それを聞いた時に「“とりあえず”なんて、そんなやり方で良い音楽が作れるだろうか。良いフィーリングが浮かんでこない時に無理して曲を最後まで仕上げる必要なんてないのでは?」と思った。しかし後になってマイケルの重い病のことを知らされると、あの時の彼の言葉は、すでに自分の病に気づき、あるいはひょっとしたら、自分の死期がそう遠い先のことでないかもしれないとまで悟った上でのレクチャーだったのか、とも思えてくる。「人生、いつどうなるかわからない。いまできることを最後までやりなさい」ということをマイケルは暗に言いたかったのではないか、と。

マイケル・ブレッカー&パット・メセニー・スペシャル・クアルテット
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Michael Brecker & Pat metheny Special Quartett with Bill Stewart(ds/left) and Larry Goldings(org/right)

 こちらの写真は、2000年7月14日のノース・シーのステージ。この年の夏はパット・メセニーとスペシャル・クァルテットを組んでヨーロッパをツアーした。ドラムはビル・スチュワート(写真左)、オルガンがラリー・ゴールディングス(同右)というベースレスのバンドだった。

そのライヴの後でラリー・ゴールディングスに聞いた
——オルガンのペダルでベーシストの役目も果たすあなたは、演奏中とても忙しそうですね?
ラリー・ゴールディングス(以下LG):忙しいけど楽しいよ(笑)。でも「ここでベーシストがいてくれたらなぁ」と思うことが時々あるのも事実だね。それにピアノを弾きたくなることもあるよ。だけどこの編成(ベースレス)では、ピアノでベース・ラインまでカヴァーするのはちょっとキビシイ。だからペダル・ベースが必要なんだ。
——マイケルについて一言お願いします。
LG:マイケルは天才だよ。彼は僕のフェイヴァリット・ミュージシャンのひとりなんだ。僕は、以前からジェイムス・テイラーやポール・サイモンのアルバムなどでマイケルの演奏を聴いていた。でも彼と一緒にプレイできるなんて思ってもみなかった。その頃はマイケルのことをポップ・サックス・プレイヤーとして聴いていたんだ。自分とは違ったシーンにいる人だと思っていたんだよ。
——パット・メセニーについてはどうですか?
LG:僕にとっては、パットは、マイケルと共にもう1人のヒーローだ。僕がジャズに興味を持ちはじめたのは12歳ぐらいの時からだけど、パットの音楽はそれよりもっと前から聴いていた。だからこのバンドは、僕にとっては、まさに“ドリーム・カムズ・トゥルー”なんだよ!

ブレッカー・ブラザーズ
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Brecker Brothers The Return of the Acoustic Band

 2001年7月15日、ブレッカー・ブラザーズ・アコースティック・バンドでノース・シー・ジャズ祭の最終日に出演。この時は、兄のランディー・ブレッカー(tp)、弟マイケル、デイヴ・キコスキー(p)、ピーター・ワシントン(b)、カール・アレン(ds)というメンバー。

ディレクションズ・イン・ミュージック
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Directions in Music Celebrating Miles Davis & John Coltrane
Herbie Hancock/Michael Brecker/Roy Hargrove


 60年代の中期、ハービー・ハンコック(p/1940年生まれ)は、マイルス・デイヴィスのクインテットでプレイしていた。マイケル・ブレッカー(ts/1949年生まれ)は、その頃、多感な10代でマイルスやコルトレーンのレコードを愛聴していた。そして、ロイ・ハーグローヴ(tp)が産声を上げた時(1969年)には、ジャズの偉人コルトレーンはすでにこの世を去り、マイルスはエレクトリック化への新たな旅立ちをはじめていた。ジャズの世界では祖父、父親、息子のような3世代のミュージシャン、ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローヴの3人は、2001年の秋にジョン・パティトゥッチ(b)とブライアン・ブレイド(ds)をバックに、マイルス&コルトレーン生誕75周年企画ライヴをトロントで行い、それをレコーディングしたアルバム『ディレクションズ・イン・ミュージック~マイルス&コルトレーン・トリビュート』を2002年5月にリリース。そしてその夏、ジョージ・ムラーツ(b)とウィリー・ジョーンズⅢ(ds)というリズム隊ふたりを加えてヨーロッパをツアーした。写真(上と下)は、2002年7月12日、ノース・シーの初日に出演した“ディレクションズ・イン・ミュージック”のステージ。
 そのライヴは、前述のアルバム収録曲を中心に進み、最後は“未解決”の雰囲気を持つチューンで終了。それはまるで、完結すると思って観ていた最後の最後に“つづく”の3文字を見せられたような、マイルスとコルトレーンの音楽は「永遠につづく」とでもいうような見事なカット! マイルスとコルトレーンに対するハービーとマイケル、ハーグローヴらの愛情の深さを感じさせてくれる上質のライヴだった。マイケルが行った「ナイーマ」独奏では、どっしりとした太い低音、つやのある中音、それにハイ・トーンのフラジオが唸り、途中でこれは究極のスケール練習か? と思わせるような素早い登り下りのパッセージや微妙なビブラートで見事にコントロールされたしっとりトーンなどをたっぷりと堪能させてくれた。
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 マイケルが死の直前まで制作作業を続けて完成させたという遺作アルバムは、彼が残した作品の中でも最高傑作との評価を得てグラミー賞も受賞した。
 そのタイトルが『聖地への旅』(原題:Pilgrimage)というのは、なんともファン泣かせである。

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# by ReijiMaruyama | 2008-05-15 13:03 | Musician / Interview

 アフリカのある国の王様がけらいに言った。「この国で一番腕の立つ音楽家を1人だけ探して連れて来い」。人々は国中を隅から隅まで捜し歩いた末に2人の男を王の前に連れ出した。「この2人は父親とその息子です。どちらも優れた音楽家で甲乙つけがたく、我々には1人だけ選ぶことができませんでした。王様のご判断にお任せいたします」。2人は代わる代わる笛を吹き鳴らし太鼓を叩いて得意の唄を歌った。その演奏を聴き終えた王は、ちゅうちょなく父親の方を最も優れた演奏家として召し抱えた。「王様、なぜ父親の方が優れていたのでしょう。私どもにはわかりません」。けらいたちが尋ねると王は言った。「演奏する2人の姿をしかと見たか。息子は汗だくだったが、父の方は涼しい顔でやっていたではないか」。
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Richard Bona
2008年4月11日、春のヨーロッパをツアー中のリチャード・ボナ(b,vo)をドイツ・ルール工業地帯の街ドルトムントで撮影。

Richard Bona Live in Dortmund 2008.04.11 at domicil
 フェミ・クティは舞台の上で上半身裸になって汗まみれ。ステージ衣装がスーツにネクタイというメイシオ・パーカーも演奏中はいつも汗びっしょりだ。ジャズ史に巨大な足跡を残したサックス・ジャイアント、ジョン・コルトレーンもしかりで、コルトレーン以下バンドのメンバー全員が体から湯気が立つほど汗をかいている生前のライヴ映像が残っている。だから「良い演奏家=汗をかかない」とは一概に言えないかもしれないが、今回ここに登場するリチャード・ボナは、ものすごいプレイを汗ひとつかかずに楽々とこなす、まさに「国王好み」のミュージシャンである。
 1999年5月13日にドイツのレヴァークーセンでボナにはじめて会ってインタヴューした時、「ベースを弾くのにマッチョである必要はまったくない」とボナは言っていた。音楽は、“力まかせ”だったり“苦労”や“苦痛”を伴ってやるようなものではない、という考え方なのだ。

 さて、ドルトムントで観たボナの最新ライヴは、キャパ400人ぐらいのオール・スタンディングのホールに満員の観客を集めて行われた。
 ボナ・バンドは、ボナを含めて6人編成だが、この日はパーカッションのサミュエル・トレスが欠けていた。ボナのツアー・マネージャーによると、トレスを含むボナ一行は4月7日にハンガリーでのライヴを無事に終えたが、同国出国の際にトレスのビザ(査証)だけがその1日前に切れていた事が発覚、トレスはそのまま当地で1週間の足止めを食らっており、彼が再びツアーに合流するまでドイツとスロバキアの計4回のライヴをトレス抜きのメンバー5人(エティエンヌ・スタッドウィック/kb、テイラー・ハスキンス/tp、アーネスト・シンプソン/ds、アダム・ストーラー/g、ボナ)で行うということだった。ドルトムントのライヴは、トレスのラテン・グルーヴを欠きながらも、ボナがいつも通りのハイ・グレードなステージを展開して2曲のアンコール(最後は今回のツアーで初登場したノリの良いアフリカン・ポップ風の新曲)を含む2時間あまりの熱演を観せ、それを受けた聴衆も大合唱で歌い踊り大いに盛り上がっていた。
 この日のコンサートを主催したのは、ボナと同じアフリカ・カメルーン出身のCEOが経営するドルトムントのイヴェント会社だ。そのためか会場内にはドイツ人に混じってカメルーン人とおぼしき観客も数多く見受けられた。ボナは、ステージの上では母国語のドゥアラ語やフランス語で大声援を浴び、ライヴ後の楽屋では主催者が用意した手作りのカメルーン料理に舌鼓を打って、終始ご機嫌の笑顔を見せていた。そんな同国人の温かい後ろ盾を得たボナが、この日のライヴで本領を十二分に発揮したのはしごく当然のことだったのかもしれない。

c0182910_12384524.jpg ボナ・バンドの新しいギタリスト、アダム・ストーラーは、ボナが以前NY大学でレッスンをつけていたボナの教え子。昨年秋のヨーロッパ・ツアーからボナ・バンドに参加している。
 師は、この日のステージでも愛弟子に温かいまなざしを送り続けていた!

ボナの新作ライヴ・アルバム "Bona Makes You Sweat"
 これまでボナのライヴを何度も観てきたが、ボナの躍動感に溢れたグルーヴを会場で受け止めていると、いつもじっとしていられず体が自然と熱くなって、気がつくと汗まみれの自分がそこにいる。先月発売されたボナの新作は、ボナ5作目にしてベース・ファン待望のライヴ盤となった。アルバム・タイトル(原題:Bona Makes You Sweat)が示す通り、たっぷり汗をかかせてくれるボナ・ライヴの興奮がしっかりと詰め込まれたボナ会心の作である。ちなみにこのアルバムの邦題は『リチャード・ボナ/ライヴ』。ハンガリーのブダペストで録音されたこのアルバムは、ベース・ファンのみならず、すべての音楽ファンにお薦めしたい。
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 これは2006年11月19日にベルギーのブリュッセルで行われたライヴのショット。ボナの新作ライヴ・アルバムの裏ジャケットに使われている。ちなみに、このCDには他のフォトグラファーが別の日に別の場所で撮影した写真も使われている。筆者のカメラによるものはこれ1点のみである。

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# by ReijiMaruyama | 2008-04-19 05:28 | Musician / Interview

第7回:本家本元

c0182910_11342073.jpg アフロ・ビートの元祖といわれるフェラ・クティ(1997年没)を父に持つフェミ・クティ。父の没後10年という区切りの年となった昨年も夏のヨーロッパ・ツアーを行ったが、これまでにも父の残した遺産を引き継いで各地でアフロ・ビートの嵐を巻き起こす精力的な活動を続けてきている。






Femi Kuti




2003年7月11日、オランダで行われたフェミ・クティのライヴ


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     激しいライヴで水分補給は重要!  得意の循環呼吸奏法も観せる

c0182910_115379.jpg 地元ナイジェリアのラゴスでは4時間のショーがあたりまえというフェミ・クティ。この日はオランダのノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルに出演したが、数多くのアーティストのプログラムが組まれたジャズ祭では各ステージの演奏時間にも限りがある、ということでフェミの持ち時間も普段の半分以下。ところが、そのステージは相変わらずのハイ・テンションで、それを受けた会場も「これが4時間続いたらいったいどうなるのか」と言いたくなるほどの盛り上がりを見せていた。
 フェミは、客席から見て舞台の中央やや右寄りでキーボードを弾き、アルトとテナーとソプラノ・サックス、それにトランペットをとっかえひっかえ演奏しながら、政治色の濃い歌詞を本家本元のアフロ・ビートに乗せて汗まみれで歌い踊る。上半身裸になって筋肉隆々の厚い胸板を見せながらサックスの循環呼吸奏法で会場を盛り上げる場面は圧巻だ。
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 その主役の熱いパフォーマンスを支えるのは総勢14人のバンド、ポジティヴ・フォースである。トランペット、フリューゲル、トロンボーン、テナー&バリトン・サックスという5人のホーン・セクションがブリブリとアンサンブルを吹き鳴らし、コンガとボンゴを中心にセットしたパーカッション2名が強烈なクラーベを叩き出し、ギター、キーボード、ベース、ドラムもひたすらグルーヴ。さらにシンガー兼ダンサーの女性3人がフロントで腰を振りながら歌う、というにぎやかなもの。
 ノース・シーで観たフェミ・クティのライヴ、それは75分間の大熱演による大汗にまみれたハイ・テンションのステージだった。

ポジティヴ・フォースのシンガー兼ダンサーの3姫
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笑顔を振りまきながらカラバスやクラーベ、シェイカーなどを鳴らし歌い踊る
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    褐色の肌に鮮やかなアフロ・カラーのステージ・コスチュームが映える

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# by ReijiMaruyama | 2008-04-03 15:38 | Musician / Interview

 タイトルだけ見て「ファンキー・ポップスやってるあの娘のことか」なんて思った人は大間違い。今回登場するのは、そのルックスとは裏腹の、ごっつい剛腕プレイによるハイ・エナジー・バップを聴かせてくれるティネカ・ポスマである。卓越したテクニックと“男らしさ”を感じるそのプレイ。何も知らずに音だけ聴いたら、演奏しているのが女性だとは誰も気がつかないだろう。
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Tineke Postma

 ティネカ・ポスマ(Tineke Postma)は、1978年8月31日にオランダ北部の静かな町ヘーレンフェンで生まれた。幼い頃からジャズの美しいメロディに心を引かれ、8才でフルート、10才でアルト・サックスを吹きはじめる。アムステルダム音楽院で学んだ後、22才の時に奨学金を得てニューヨークのマンハッタン・スクール・オブ・ミュージックに半年間留学。2003年、ファースト・アルバム『First Avenue』をオランダのレーベルから発表してアメリカでも好評を得る。2005年10月、ソロ2作目の『フォー・ザ・リズム』がフィフティ・ファイヴ・レコードから発売されて日本デビュー。昨年夏にはサード・アルバム『ジャーニー・ザット・マターズ』をリリースした。また、2005年の夏(チャーリー・パーカーの誕生日)にアムステルダムで収録されたライヴDVDもヨーロッパで発売されている。

ティネカから日本のジャズ・ファンへのメッセージ
 2005年7月9日、オランダのデン・ハーグで開催されたノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルの2日目にテリ・リン・キャリントン(ds)をフィーチャーした自己のクインテットで出演したティネカを取材した。写真はその日に撮影したものである。「日本の雑誌のインタヴューを受けるのは初めて」と言いながら語ってくれた彼女の話は、同年のジャズライフ11月号に掲載された。ここではその誌面に収まりきらなかった部分を少しだけ。

――あなたはアルトの他にソプラノもプレイしますね。昨日(ジャズ祭初日)、アンネ・クリス(オランダの女性シンガー)のライヴをサポートするあなたの演奏を拝見しましたが、あなたがソプラノで最初の1音を出した瞬間に「おおっ!」と思いました。そんな風に感じさせてくれるプレイヤーは少ないですよ。
ティネカ・ポスマ(以下TP):(笑)ありがとうございます。これまで16年間吹き続けているアルトが私のメインですが、ソプラノも大好き。いまから4年前、それまでとは何か違った別のものを試したくなってソプラノも吹きはじめたんです。最近のコンサートでは、アルトとソプラノを7:3の割合で使っています。
――ソプラノはアルトよりもサイズが小さいので演奏も楽なんでしょうか?
TP:いいえ。実際にはソプラノの方がチューニングが大変。同じ指使いでもアルトとは出てくる音が異なるし、演奏テクニックも、ブローイングやアンブシュアなど、口元のセッティングのすべてが変わってきます。だから私は、アルトとソプラノをまったく別の楽器だと思って吹いています。ソプラノで演奏する時はフリーなスタイル、アルトでは自然とビ・バップやハード・バップのスタイルになりますね。
――日本のジャズ・ファンに何か伝えたい事はありますか。
TP:私はまだ日本に行った事がないんです(注:彼女はこの年の暮れに初来日をはたした)。でも素晴らしいジャズ・マインドを持った日本のジャズ・ファンのことは数多くの人から聞いて知っていますよ。みなさん、いつまでもその気持ちを忘れないでください!
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# by ReijiMaruyama | 2008-03-31 02:53 | Musician / Interview

 いきなり私事で恐縮だがジョナス・エルボーグ(b)は、筆者が12年前にジャーナリストとしてはじめて取材してインタヴューを行い写真撮影もした記念すべき(!)ミュージシャンである。1958年生まれの同い年ということにもなんとなく共感を覚える。
 ジミヘンやクリーム等のロックやブルースの影響を受けて12才頃からベースを弾きはじめた後、ジョン・マクラフリン(g)率いるマハヴィシュヌ・オーケストラ(以下MO)のデビュー・アルバム『内に秘めた炎』(原題“THE INNER MOUNTING FLAME”/71年)を聴いてジャズロックに目覚めたエルボーグ。約10年後の1983年、それまで自己のレーベルを立ち上げソロ・アルバムを制作するなど地道な活動を続けていたそのエルボーグに今度はマクラフリンが注目した。
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Jonas Hellborg and his friends

 マクラフリンは、ビリー・コブハム(ds)とのトリオにエルボーグを招き入れると、さらにメンバー/楽器編成を替えて再結成したMOへの参加も要請。これによって若きスウェーデン出身のベーシストの名は世界中のジャズ・ファンに知れ渡った。84年にモントルー・ジャズフェスティバルに出演したMOのライヴDVD(74年に行ったライヴも収録)が最近になって発売されたが、その中で当時のエルボーグの熱演を観ることができる。

俗にいう“練習”は「いっさいやらない」というジョナス・エルボーグ
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ベース・マガジン(1996年7月号/リットーミュージック)に掲載されたエルボーグの記事
Text & Photo by Reiji Maruyama


1996年のフランクフルト(ドイツ)・ムジークメッセ会場でエルボーグが語った
 「僕に言わせれば、本当の意味でのハイ・クオリティ・アンプというものは未だに発表されていない。妥協したくないから今はベース・アンプを使用しない」。つまりアンプなしでDI(ダイレクト・ボックス)を通して直接ミキサーにつなぐという事。当時のエルボーグは、自身のアイデアをもとにしてステータスに製作を依頼したソリッド・ボディのベースを使用していた。「エフェクターも使っていない。あくまでも音は自分の指で作り出すものだと考えているからね。その方法を言葉にするのは難しいが、強いて言えば自分の頭の中で鳴っている音のイメージをハッキリと把握して、指と耳のコネクションを密にするということ。テクニック的な事はあまり考えずに、実際に出てくるサウンドをよく聞きながら、イメージする音とのギャップを埋めていくんだ」。

 ベースのプレイに必要な筋肉が衰えないようにするためのシンプルなスケールなどを弾くトレーニングと、音楽の内容を考えながら“曲”を弾くということ以外は、いわゆる“練習”はいっさいやらないと言うエルボーグ。あなたのように技術的に高いレベルに達した人ならそうかもしれないがと突っ込むと、「いや、これはどんなレベルの人にも言えることで、出来れば早い時期からそうすべきだ。いわゆる“練習”というものは、プラスティックで作った食べ物みたいなもので、料理することも実際に食べることも出来ない。音楽理論も同じだ。僕は本やレコードなどを参考にして独学で理論を学んだけれど、今では音楽は言語みたいなものだと考えている。いろんな国の言葉の文法をどれだけ勉強しても、実際に人との会話が出来なければあまり意味がない。それよりも世界中を旅して回りながらいろんな人と出会ったりする方がためになる。音楽もそれと同じ。練習やセオリーだけでは成り立たないんだよ」。

時は流れて2007年のフランクフルト・メッセ
 ドイツのベース・メーカー、ワーウィックのブースでデモ演奏するエルボーグを見つけた。先の写真がその一場面である。同社が製作した自身のシグネィチャー・ベース(ホロウ・ボディ仕様)とアンプを使うエルボーグ(左)と共に演奏していたのは、はだしのインド人バイオリン奏者ともう一人……。
 あれ? あの背高ノッポのベーシストは誰? この雰囲気、それに左手の開き具合など、どこかで見たことあるような。ベース好きの人ならその風貌から何となく察しがつくかもしれないが、この青年については別の機会で。

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# by ReijiMaruyama | 2008-03-27 13:06 | Musician / Interview

 「何でもあり」。フュージンスキーのギター・スタイルを一言でいえばそんな感じか。彼のプレイについては、“変態”などと形容されたりすることもあるが、これはあまりにも安易な表現だ。通常のギタリストとは異なるフューズの大胆で繊細な演奏スタイルは、変態的でも偏執狂的でもない、いわば“実験的”であり“知的”である。そして、さらにそれが単なる“頭でっかち”ではなくて、豊かな感性とインスピレーションに溢れているのだ。
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David "Fuze" Fiuczynski

“フューズ”が語る自らの作曲とアレンジの方法
 フレットレス&フレッテッドのダブルネック・ギターを使った不可思議サウンドを連発するフュージンスキー。その腕を買われて、昨年から上原ひろみ(p)のバンド・プロジェクト(SONICBLOOM)にも参加している。写真は、フュージンスキーが自己のバンド、スクリーミング・ヘッドレス・トーソス(SHT)を引き連れて2001年3月12日にケルンでライヴを行ったときのショット。フュージンスキーにはこれまでに何度かインタヴューにつき合ってもらい、その記事はいずれもジャズライフに掲載されたが、はじめて会った時(2000年4月25日)に曲作りやアレンジについて尋ねたときの彼の答えは次のようなものだった。

 「作曲はギターですることが多い。自分の作曲方法について考えてみると、僕は、コンポーザ-というよりも音楽の狩人であり収集家だね。膨大な量の”音のカタログ”を持っているんだよ。たとえば、ロナルド・シャノン・ジャクソンやジョ-・ザヴィヌル(kb)のメロディ、ビリ-・ハート(ds)、ジャック・ウォルラスやマハヴィシュヌ・ジョン・マクラフリン(g)のハーモニー、ファンクやロック、ハウス、スカ、レゲエ、ヒップホップ、ドラムンベースやテクノ、R&Bのリズムなど、面白いと思ったものは何でもキープしてある。曲作りは、それら音楽要素のひとつからスタートすることもあるし、最初に曲のフォームを決めてしまうこともある。すでにある曲の形式を取り入れてグルーヴを変えてみたり、材料を重ね合わせてサンドイッチにしたりという具合にね。
 曲をアレンジする時には、何か新しい特別な事をやろうなんて思わない。SHTの1枚目(『スクリーミング・ヘッドレス・トーソス』)で、マイルス・デイヴィス(tp)の「ブルー・イン・グリーン」をレゲエ&ロックの曲に書き変えた。スティーヴン・キングの『ヴァンパイア』という小説にインスパイアされた歌詞には、聖書の1節から抜き出した言葉も組み込んである。同様に、ハウス・ビートを使った「Cult Of The Internal Sun」(作詞作曲はフュ-ジンスキー)は、7/4・8/4・8/4・7/4という変則リズムと型にはまらないマイナー・コードの動きが重なり、どこかで聴いたことがあるようだけど、ちょっと変わった仕上がり。そういうことが単純に好きなんだ。 まったく異なる要素がうまく反応しあった時にすばらしい結果が生まれるのさ」。

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# by ReijiMaruyama | 2008-03-16 02:36 | Musician / Interview

 スウェーデン出身のピアニスト、エスビョルン・スヴェンソン率いるe.s.t. (エスビョルン・スヴェンソン・トリオ)。北欧のピアノ・トリオである。“北欧の~”というと、美しく洗練されたアカデミックなサウンドをイメージするが、e.s.t.の音楽は、その“北欧っぽい”奥の深さや透明感、清涼感だけではなく、まるで地下でグツグツと煮えたぎるマグマのように量り知れないエネルギーが潜んでいる。
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Esbjörn Svensson (e.s.t.)

 ピアノの弦をはじいたりボトルネックやエフェクターなども使って厚みのある音を作り出すスヴェンソン。アコースティック・ベースにワウワウをかけたファンキーなプレイや、ボウ(弓)で幻想的な世界を演出するダン・ベルグルンド。ドラムンベースやヒップホップのビートを織りまぜながら、エフェクターを効果的に使ったドラム・サウンドを駆使するマグヌス・オストロム。じわじわと緊張感を高めながら徐々に演奏を盛り上げて行く彼らのライヴを体験した者は、インプロヴィゼーションの楽しさを存分に味わう事になる。

 エスビョルン・スヴェンソンは1964年4月16日生まれ。スウェーデンのスクルトゥナという小さな村で、母がクラシック・ピアノを弾き、父はデューク・エリントン等のジャズを愛聴するという家庭で、ラジオから流れてくるポップスの影響も受けながら育った。「最初はマンドリンを弾いて歌っていたんだ。ピアノは、11才の時にレッスンを受けはじめたけど、とてもクラシカルで退屈だったから2ヶ月ぐらいで止めちゃったよ。でも、その後も家ではピアノでいろんなメロディを弾いたりしていた。そんな頃、近所に住んでいたマグヌスがクリスマスに手に入れたドラム・セットを僕の家に持ってきて組み立てたんだ。僕はCメジャーとかDマイナーなどのシンプルなコードを弾き、マグヌスがリズムをプレイして、僕らはそれに合わせて歌詞をつけて歌った(笑)。これがそもそものはじまりだね」。スヴェンソンはストックホルムの大学で4年間音楽を学び、80年代中ごろから北欧ジャズ・シーンでサイドマンとして頭角を現わし、90年にマグヌスと共に自己の名を冠したトリオe.s.t.を結成。そして、93年にダンを迎え入れてアルバム・デビューした。その後、本国スウェーデンで“ジャズ・ミュージシャン・オブ・ザ・イヤー”や“ベスト・ソング・ライター”等のタイトルを手にし、99年のアルバム『From Gagarin's Point of View』でヨーロッパにおける知名度を高め、翌2000年に発表した『Good Morning Susie Soho』の成功によってその人気を確実なものにしている。

 写真は、2002年11月8日にドイツ・レヴァークーセンのジャズ祭に出演した時のステージ。ピアノの上(彼の右手の前あたり)には、POD(デジタル・アンプ/エフェクト・シミュレーター)が見える。この日は、メンバー3人へのインタヴューも行っており、その話はジャズライフ2003年3月号に掲載されたが、ここではその中からちょっとだけ。

僕はピアノの前におとなしく座って静かにプレイしようと努力している
一一エスビョルン、あなたは演奏中によく身体を動かしますね。それに声も出す。これは、自分のプレイを高めたい、もっと表現したいという意識の表れですか?
エスビョルン・スヴェンソン(以下ES):ノーノー。僕はピアノの前におとなしく座って静かにプレイしようと努力しているんだ。演奏中に身体を動かすのは好きだし、特に問題もないけれど、困るのはピアノに合わせて声高らかに歌い出した時だね。(隣でダンがフフフと低く笑う)
一一新作(当時)の『ストレンジ・プレイス・フォー・スノウ』でも1曲目から歌ってますね(笑)。
ES:うん、(声が)聞こえるね。これまでにも僕は、声を出すのを止めようと努力してきた。でも演奏中に音楽の中に入り込んで行くと自然に声が出ちゃうんだ。今では、これは僕の音楽の一部分だと思っている。でも、実は、なんとか声を出さないようにとトライしているんだよ。
一一キース・ジャレットのファンでも「あの声はちょっと……」という人はいますからね。
ES:僕はキースみたいに大きな声は出さないと思うけど……、いや、そう願いたいね(笑)。
一一ステージではPODを使っていますが、あれはギター用のものですか?
ES:そうだよ。
一一どんなエフェクト音をよく使いますか。たとえばフランジャーとか?
ES:ちょっとわからない。「このエフェクトは何?」なんて考えたことないんだ。ガチャガチャ(エフェクターのツマミを回すふり)ってやって「おっ、この音良いぞ!」って、ただそれだけさ(笑)。

・・・
2003年10月22日にフランクフルト郊外の街で行ったインタヴューの記事(ジャズライフ2004年2月号に掲載)の一部が鯉沼ミュージックのサイトにアップされています。

◆追記:
エスビョルン・スヴェンソンは、2008年6月14日にスキューバダイビング中の事故により44歳で他界しました。筆者が行ったエスビョルンへのインタヴューの中で彼自身が語ってくれた“死後の世界”についての言葉(肉声録音)を筆者のメイン・サイトで公開しています。詳しくはエスビョルン・スヴェンソンの声(当サイト内の記事)をご覧下さい。


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# by ReijiMaruyama | 2008-02-29 23:51 | Musician / Interview

 4~5才頃にピアノを弾きはじめたメイシオ・パーカー。両親は教会でゴスペルを歌い、伯父は地元のブルース・バンドで活躍するという音楽一家に育った。小学校時代に、トロンボーンを吹く1つ年上の兄と、ドラムをプレイする1つ下の弟メルヴィン、それにいとこらを加えてバンドを結成して伯父が出演するクラブで演奏活動を開始。マーチング・バンドの行進に憧れて12才でアルト・サックスを手にし、さらにハイスクールでテナー・サックスをプレイするようになる。そしてフルートも吹きはじめたカレッジ時代、1962年のある夜、弟メルヴィンが地元のナイト・クラブで演奏していると、ジェイムス・ブラウン(vo)が食事を取るためにその店へふらりとやってきた。
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Maceo Parker

さて、ファンクの帝王JBは……
 まだカレッジの学生だったメルヴィンのドラムの音に惚れ込んだファンクの帝王JBは、「オレのバンドに入る気になったら訪ねてこい。お前ならいつでも雇ってやる」とメルヴィンに言い残してクラブを後にする。この時メイシオは、別の場所でギグを行なっていたのでその場には居合わせなかったが、その1年半ほど後の64年に弟メルヴィンの紹介でメルヴィンと共にJBのバンドに加わることになる。JBは、初対面のメイシオに「バリトン・サックスを持ってるか?」と聞いた。その時、「はい、持っています!」と答えたメイシオは、実はバリトンを持っていなかったが、何とかそれを工面してめでたくJBバンドのメンバーとなり、65年にJBの「Papa's Got a Brand New Bag」でバリトン&テナー・サックスを吹いて初レコーディング。以来、約20年間に渡って帝王の“お気に入りホーン・プレイヤー”として活躍した。この間に彼のサックスは、バリトンからテナー、そしてアルトへとサイズが縮まり、いまでも時々フルートをプレイする以外は、アルト一本槍である。

 メイシオ・パーカーは、ノースカロライナ州キンストン生まれ、現在もキンストン在住。昨年は、ドイツのWDRビッグバンドと共演したソロ14作目となるライヴ・アルバム『ルーツ・アンド・グルーヴズ』を発表した。今年のバレンタイン・デーに65回目の誕生日を迎えたメイシオは、今日も精力的なライヴ・パフォーマンスを観せてファンの腰を揺らし続けている。名実ともにファンク・ホーンの第1人者である。

 今から8年ほど前の2000年7月30日にドイツ・ルール工業地帯の小都市ボッフム(Bochum)でコンサートを行なったメイシオ。そのライヴの2時間ほど前に撮影したのが上の写真。この時のインタヴューの内容は、同年末に発売された雑誌「JAZZ HORN 2001」(ジャズライフ別冊)に掲載されたが、ここではその誌面に収まりきらなかった話を最後にひとつだけ。

メイシオが70歳を祝うコンサートでプレイするバラード!?
――あなたの人生はサキソフォンとファンキー・ミュージックで明け暮れているんですね?
メイシオ・パーカー(以下MP):その通りだよ(笑)。
――ハービー・マン(fl)は、今年70歳になりましたが、つい最近ヨーロッパをツアーしたんです。
MP:本当かい!? ふぅーん(と感心している様子)。
――あなたは現在57歳ですが、70歳の自分を想像出来ますか? いまから13年後です。
MP:君にそう言われて自分の年を実感したよ(笑)。そうだなぁ…。その時に体力的な限界が来ちゃっていたらどうしようもないが、ファンの要望があってライヴのチャンスが与えられる限りはプレイし続けていたいね。
――「メイシオ・パーカー70歳を祝う」というコンサートが行なわれる時は観に行きます(笑)。
MP:(笑)その時は、ホリデイ・イン(ホテル)みたいなところでドラム/ベース/ピアノのトリオをバックにバラードでもやろうかな。(そう言って指を鳴らしながらスローなスウィング調で歌いだす) ♪Shake everything you've got~♪ ってな感じで。ハハハハッ!

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# by ReijiMaruyama | 2008-02-16 14:45 | Musician / Interview

 ジャズの歴史を変えたマイルス・デイヴィス(tp)のアルバム『ビッチェス・ブリュー』(1970年)で、バス・クラリネットを吹いて重要な役割を演じたベニー・モウピン(ts,ss,b-cl)。そして、そのアルバムで音楽的な鍵を握っていたキー・パーソンとも言えるジョー・ザヴィヌル(kb)が、後にウェイン・ショーター(ts,ss)と共に結成したウェザー・リポートにジャコ・パストリアス(b)の後釜として1982年に参加して一躍脚光を浴びたヴィクター・ベイリー(b,vo)。2人はカリフォルニアに住んでいる。
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Bennie Maupin & Victor Bailey

 ドイツ・デュッセルドルフで毎年初夏に行なわれるJazz Rally(ジャズ・ラリー)。ライン川沿いに広がる旧市街を中心にデュッセルドルフ市内がジャズで溢れかえる3日間のジャズ・フェスティヴァルである。2006年6月2日、14回目を数えたそのジャズ祭の初日にヴィクターのグループが出演した。写真はその時のライヴ。
 2001年10月にドイツのレヴァークーセンではじめてこの2人の共演を観た時、ライヴの後でヴィクターにインタヴューを行い、その話の中でベニーについて尋ねると次のような答えが返ってきた。
 「ベニーは『ビッチェズ・ブリュー』でプレイしたレジェンドだ! 僕はハービー・ハンコック&ヘッド・ハンターズなどを聴いて育ったけど、その頃のベニーは僕のアイドルだった。サックスでコンテンポラリー・ジャズをプレイするとなるとマイケル・ブレッカー(ts)やデイヴィッド・サンボーン(as)みたいに吹くやつが多いけど、ベニーのトーンは他の誰のものでもない。僕は、以前住んでいたNYからLAに引っ越したおかげでベニーと一緒に活動する機会が増えた。これはとてもラッキーなことだよ」。
 デュッセルドルフのステージでも2人の気心が知れた様子が見て取れた。

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# by ReijiMaruyama | 2008-02-14 05:12 | Musician / Interview

丸山礼司のプロフィール

English profile >>

1958年生まれ。山梨県出身。日本大学生産工学部管理工学科卒業。
1982年、株式会社ESP(イー・エス・ピー)に入社。東京本社でエレキギターの製造販売及びリペアー業務に携わった後、1985年にヨーロッパ市場を担当するドイツ現地法人ESP Europeの支配人として海外赴任。ドイツで10年間の駐在員生活を送る。
1995年、ESPを退社。その後もドイツに滞在。翌96年3月、フランクフルトで行われた楽器見本市“ムジークメッセ”(Frankfurt Musikmesse)を取材してフリーランスの音楽ジャーナリストとしての活動を開始。ドイツ・デュッセルドルフ市在住。
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ドイツの新聞社Leverkusener-Anzeigerから受けたインタヴュー(日本語訳) >>

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# by ReijiMaruyama | 2008-02-14 00:01 | Profile

ごあいさつ

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これじゃ読めないぞ! と日本のみなさんに言われるのを覚悟の上でホームページを英語表示にしました。そこでこのサイトでは僕が撮影したミュージシャンの写真等を日本語で紹介します。

更新は不定期です。気の向くままにやっていますのであしからず。

ご注意:このサイト内に掲載されているすべての写真、画像、文章等の著作権は、丸山礼司が保有します。許可なく複製したり、転載、転用することは禁じます。ご質問・ご要望のある方はメールでご連絡ください。
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# by ReijiMaruyama | 2008-02-14 00:00 | Information