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第14回:ジョー・ザヴィヌル

 ちょうど1年前の今日、2007年9月11日にジョー・ザヴィヌル(kb)が亡くなった。筆者が最後にザヴィヌルの勇姿を見たのは、その2ヶ月前にオランダのロッテルダムで行われたノース・シー・ジャズ・フェスティヴァルの初日(2007年7月13日)に出演したザヴィヌル・シンジケートのライヴだった。ザヴィヌルの愛したドラマー、パコ・セリを加えたバンドの演奏はとてもエネルギッシュで、ザヴィヌル本人もいつものようにステージ上でメンバーに自身の身振り手振りやその表情であれこれと指示を与えながらのプレイでザヴィヌル節が全開だった。その時は、「ずいぶんやせたなぁ」と思ったが、まさかあの後すぐに具合が悪くなって、あんなに早く逝ってしまうとは夢にも思わなかった。
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Joe Zawinul
2007年7月13日、死の2ヶ月前にノース・シー・ジャズ祭に出演したジョー・ザヴィヌル

 2002年の夏、ジャズライフの記事のためにノース・シー(当時はハーグ市で開催されていた)でザヴィヌルにインタヴューした。その時、はじめてお互いに目と目を合わせたのだが、そこで筆者はザヴィヌルから個人的なお褒めの言葉をいただいた。「君は輝いているね(you are bright)」というその言葉にとても勇気づけられたのだ。こちらは、以前からあこがれていた天才ミュージシャンに対していろいろと質問することができて、ただ舞い上がっていただけなのかもしれないが、ザヴィヌルの目にはそれが“輝いて”見えたのかもしれない。そんなこともあって、これまでにも時代を築いた素晴らしいミュージシャンが数多く亡くなっているが、昨年9月の「ジョー・ザヴィヌル逝く」の報は個人的に特別なものだった。「ザヴィヌルの本拠地だったウィーンのバードランドを訪ねてみたい」という思いは自然とこみ上げてきた。そして、ザヴィヌルの49日を数日過ぎた頃に当たる11月2日と3日に、バードランドでリチャード・ボナのライヴが2日間組まれているのを知り、「これがチャンス!」と意を決した。

 2007年11月2日金曜日、小雨のぱらつく午後のケルン空港(ドイツ)を飛び立ち、1時間半後に曇り空のウィーン空港(オーストリア)へ到着。その足ですぐにウィーン市内中心部のヒルトン・ホテルの地下にあるジョー・ザヴィヌルのバードランドへ向かった。その夜はボナ・バンドのライヴを観たあと、ザヴィヌルの息子(次男)エリックに会いバードランドに関する話を聞いた。そして翌日、ザヴィヌルのマネージャーを20年間務めたリザ・ツィンケ(Risa Zincke)女史にインタヴューし、さらに彼女の案内でザヴィヌルのお墓参りをした。この時のウィーン取材リポートは、ジャズライフ2008年1月号に掲載されたが、ここではその記事の中に収めきれなかった話をかいつまんで写真と共に紹介してみたい。特に、ただひとりだけジョー・ザヴィヌルの75年と2ヶ月の人生最後の瞬間を見届けた人物であるツィンケ女史は、ザヴィヌルが2007年夏のラスト・ツアーを終えてから死の床に伏して最期に至るまでのあまりにも悲しい様子も話してくれたので、今回あえてその部分も記しておこうと思う。

ジョー・ザヴィヌルズ・バードランドとウィーン中央墓地 >>



Joe Zawinul's Birdland - The Music Corner of the World
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バードランドの地上入り口付近。中へ入ると広い階段が地下のクラブへと導いてくれる。身障者用の階段昇降機も備え付けられた階段ホールには、デューク・エリントンとベニー・グッドマンが笑みを浮かべながらエラフィッツ・ジェラルドのライヴを観ている写真が壁いっぱに大きく掲げられていた。
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階段の壁にはシンジケートのコンサート・ポスターなどが貼られていた。ボナのコンサートが行われたこの日(2007年11月2日)、ザヴィヌルの死後はじめてバードランドに来たというツィンケ女史は、この場所にいるとザヴィヌルの事を思い出してしまうのか終始浮かない顔だったが、この時は笑顔を見せてくれた。
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バードランド内部の壁には、若き日のデューク・エリントンやサッチモ、マイルス、ラッパが曲がる前のガレスピー、ビリー・ホリデイ、チェット・ベイカーらの写真パネルが貼られ、柔らかめの照明に照らされている。とてもエレガントで落ち着いた雰囲気。ここには写っていないが「ジャズ写真の中で最も価値のあるもの」(誰が言ったか知らないが)と言われる、当時のNYで“ジャズメン”と呼ばれるミュージシャンが一堂に会した“ジャズ・ポートレイト・ハーレム1958”(1958年アート・ケイン撮影)の写真パネルもあった。
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Erich Zawinul
バードランドの観客にボナを紹介するジョー・ザヴィヌルの息子エリック・ザヴィヌル。3人いるザヴィヌルの息子の次男エリックは、このバードランドの経営を任されている。
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バードランドのすぐそばにあるウィーン・ミッテ駅前。ザヴィヌルが生まれ育った“ランドシュトラーセ第3地区”はこの方角に広がっている。
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バードランドを挟んで駅の反対側には市立公園が広がる。その公園前でバイオリンを弾いていたウィーンの“ムージカント”。

2007年11月3日 ウィーン中央墓地(Zentralfriedhof)
 ツィンケ女史の小型乗用車は、ザヴィヌルが少年時代を過ごしたというウィーン市内東部にあるランドシュトラーセ第3地区の飾り気のない街並をぬけると、さらにウィーン中央墓地(Zentralfriedhof)を目指して市の南東に向かった。「ザヴィヌルさんは、私のこの使い古しの車が大好きでした」。ザヴィヌルがウィーンを訪れた際には、いつも女史がこの車で空港やホテルへの送り迎えをしていたそうだ。いま自分が座っているこの助手席が、かつて天才キーボーダーの指定席だったことを知ると、背中とお尻がムズムズしてくるのをこらえることができなかった。

 ザヴィヌルの遺骨は、ザヴィヌルよりも一足先の2007年7月26日に亡くなったザヴィヌルの妻マキシン夫人の遺骨と共に、ザヴィヌルの故郷ウィーンの中央墓地内にある“名誉墓地”に埋葬されていた。妻の名前と共に「ジョー・ザヴィヌル」と記された墓標の前にたたずんで涙ぐむツィンケ女史。彼女は、ザヴィヌルの葬儀が執り行われた日(9月25日)以来この日まで、つらくてお墓参りができなかったそうだ。筆者も思わず涙ぐんでしまった。

ジョー・ザヴィヌルとツィンケ女史
 ザヴィヌルとの関係を“ベスト・フレンド”と形容する女史は、いまだにザヴィヌルのことを“さん付け”で呼んでいる。ザヴィヌルも彼女のことを、既婚女性に対するドイツ語の敬称をつけて「フラウ・ツィンケ」と呼んでいた。ツィンケ女史がザヴィヌルとはじめて出会ったのは、1986年にザヴィヌルがウェザー・リポート(WR)の活動を停止してヨーロッパに来た時だ。当時の彼女は、ウィーンでクラシック関係のエージェントとして、ピアニストのフリードリッヒ・グルダ(Friedrich Gulda/1930年5月16日生、2000年1月27日死去)の仕事を手伝っていた。グルダは、モーツアルトやバッハ、ベートーベンを得意とするクラシック・ピアノの巨匠でありながら、演奏中に突然アドリブを入れたり歌いだすなど、ジャズとクラシックを融合させたようなアプローチを観せてクラシック界では賛否両論を浴びた人物である。ザヴィヌルと同じウィーン出身で、ザヴィヌルとの共演アルバムや自己名義の“ジャズ・アルバム”なども発表しているが、それ以前からザヴィヌルのずば抜けた才能に注目していたグルダは、ザヴィヌルがWRをやめてフリーになったという知らせを聞いて、当時自分がディレクターを務めていたミュンヘンのピアノ・フェスティヴァルにすぐさま彼を招待した。「グルダが私のことを“最高のエージェント”と紹介するとザヴィヌルさんは、“OK、フリードリッヒ。ならば、彼女は僕のために今すぐシュナップスを持ってくるべきじゃないか?”と言ったんです(笑)。その時私は、心の中で、“この人とは、この先ずっと関わり合いを持つことになる”と思いました。私たちは、ほぼ同世代で同じウィーンに生まれ、あまり裕福でない子ども時代を過ごし、オーストリア訛りのドイツ語をしゃべる、という共通点を持っていたのですぐにうちとけたんです」。女史はそれ以後20年間に渡って、ザヴィヌルが行なったライヴをひとつも欠かさずに観て彼のプレイを聴き、さらにオフステージでもその一挙一動を見守ってきた。
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2006年7月16日、ロッテルダムのノース・シーでWDRバンドと共演した時のザヴィヌル。このステージでは、時々、楽譜を見ながら演奏するためにぶ厚い老眼鏡をかけていた。
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こちらも2006年のノース・シー。ベースはリンレイ・マルト。

 「彼はいつも真実を語っていました。例えば、取材に来たジャーナリストが、あまりにもくだらない質問をすると、“それは馬鹿げた質問だ。もう君とは話したくない”とはっきりと言いました」。それを聞いた筆者は、以前ザヴィヌルにインタヴューした時に、「バカモノ!」と言われずに済んでよかったと内心ほっとした。ステージ上でメンバーに向かって眼光鋭く身振り手振りを交えて指示を出すザヴィヌルの姿には迫力があった。しかもその音楽が、いろんな要素を取り込んだ独自のザヴィヌル・サウンドで迫ってくるからたまらない。「ちょっと聴くとたやすいものだと感じるかもしれませんが、彼の音楽はとても複雑で難解で、バンドのメンバーも演奏するのにとても苦労していました。彼は、自分が望むプレイをみなに厳しく要求したのです。コンサートがうまくいかずに、ステージをおりた直後の楽屋でメンバーを怒鳴ったこともありました。でも、ここ2年ぐらいはそういうことも少なくて、彼はハッピーでした。最後のツアーでは、“いままで行ったツアーの中で、今回が音楽的にベストだ”と言っていました。私もそう思います」。死を目の前にして行った最後のツアーが最高の出来だったとは、ミュージシャン冥利に尽きる。

ツィンケ女史が語るザヴィヌルの最期
 ツィンケ女史は、ザヴィヌルが病に冒されていることを2年前から知っていた。ザヴィヌルが患ったのは、紫外線とは関係のない珍しい種類の皮膚がんで、治療で進行を妨げることができるものだった。しかし、病と戦うザヴィヌルにとって、妻が気管支を患っていた事はマイナスだった。前述のとおりマキシン夫人は、ザヴィヌルがラスト・ツアーを行っていた最中に亡くなっている。
 ザヴィヌルは、2007年の6月下旬頃までは体調が良かったそうだ。だが7月になってツアーのためにヨーロッパ入りした時は、食欲がなく体が弱っていた。ツィンケ女史ら関係者は、このままツアーを行うか、それとも彼を病院に連れて行くべきかと悩んだ。しかしザヴィヌルは、「ツアーは予定通りに行う」と言ったのだ。「今だから話せますが、7月15日以降、彼は本当につらい日々を過ごしていました。最後の2回のコンサート(8月1日と3日)では、地元のプロモーターや回りの他の人々も彼の重病を察知しました」。8月1日にハンガリーで演奏した時のザヴィヌルは、すでに歩行も困難で車椅子の助けを借りていた。そのステージにはウェイン・ショーター(ts,ss)が飛び入りして、ザヴィヌルと2人で「イン・ア・サイレント・ウェイ」をプレイした。観客にとってはうれしいサプライズだったが、それはショーターからザヴィヌルに向けた別れの挨拶だった。しかしザヴィヌルは、まだ自分の人生をあきらめなかった。その頃すでに妻を亡くしていた彼は女史にこう言った。「もうマリブの自宅には帰らない。この後、ウィーンにアパートを借りて、孫の顔を見ながら自分の楽器に囲まれて曲を書いて暮らす」と。しかし、ツアーを終えて生まれ故郷に戻ったザヴィヌルは落ち込んでいた。入院先の病院の誰もいない病室で突然一人ぼっちになってしまったのだ。最愛の妻はすでに亡く、母親を失ったばかりの息子たちは多忙を極めていた。ツィンケ女史はいたたまれず、ザヴィヌルの病室にもう1つ彼女用のベッドを入れてほしいと病院側に申し出た。つきっきりの看病がはじまり、その後しばらくは良好だったが……。

 9月の声を聞くとザヴィヌルの様態が急変した。そして、9月11日の午前5時(日本ではちょうどお昼頃)、ツィンケ女史は、ついにジョー・ザヴィヌルの来世への旅立ちを見届けることになった。「最後の言葉は、“ツィンケさん、水を飲ませてくれ”、でした。もうベッドの上で動くことも出来なかったのです。その夜は、私に何度も水を要求しました。だからその時も飲ませてあげようと思ったのですが…、急に息が出来なくなってしまったのです。私は急いで医師を呼びましたが手の施しようはありませんでした。亡くなったのは、その数分後です。彼は自ら死期を悟っていました。すでにその前に、“私には、はっきりとわかる。自分は逝かなければならない”、と言ったのです。私は、なんとかしなければと思って励ましたのですが、彼は、“もういいんだよ”って……」。ツィンケ女史の言葉はそこで途切れた。
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ウィーン中央墓地内にある丸屋根の教会。ザヴィヌルのお墓はそのすぐそばにある。
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ウィーンの偉大な楽聖や画家、政治家などの著名人が眠る“名誉墓地”には芸術作品のような立派な墓石が立ち並ぶ。
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ジョー・ザヴィヌルとマキシン夫人のお墓に建てられた木の十字架。
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「しばらくの間は、このまま地面が固まるのを待つのです。その後で墓石を建てますが、どんな墓石にするか、それは家族(ザヴィヌルの息子達)が決めること。でもザヴィヌルさんは、十字架がとても好きだったので、きっとこのシンプルなお墓も気に入って満足していると思います」とツィンケ女史は言っていた。ザヴィヌルの死後1年が経った今、どんな墓石が建てられているのだろうか。

Joe Zawinul Forever!
 息を引き取る数日前まで音楽の事しか考えていなかったザヴィヌルは、「歩けなくても車椅子でステージに上がる。楽器もそれに合わせてセッティングするから大丈夫だ」と言っていたそうだ。そんなザヴィヌルが我々音楽ファンに残した渾身のライヴ・アルバムがもうすぐ9月24日に発売される。その2枚組CD『75~ラスト・バースデイ・ライヴ!』(ビクターエンタテインメント)は、昨年7月7日にスイスで行われたザヴィヌル75歳のバースデイ・ライヴの模様がメインに収録されており、さらに8月1日にハンガリーで行ったウェイン・ショーターとの共演も付け加えられている。これはザヴィヌル・ファンにとっては必聴だ。また、ツィンケ女史の話では、『ダイアレクツ』(ソニー/1986年にザヴィヌルが制作したソロ作品)の続編となるアルバム『ダイアレクツ2』を出す計画も生前のザヴィヌルにはあったそうで録音もすでに終えていたらしい。その他にも、ザヴィヌルがサビーネ・カボンゴ(vo)を加えてNYの>アブソルート・アンサンブルと共に2007年1月にレコーディングしたアルバム『アブソルート・ザヴィヌル(Absolute Zawinul)』もできあがっているそうだ。さらに、オーストリアのテレビ局が企画収録したザヴィヌルのポートレート(映像作品)もあり、それは当初、2007年9月29日のコンサート(アブソルート・ザヴィヌル)で演奏するザヴィヌルの勇姿で幕を閉じる予定だったが、ザヴィヌルの死去に伴いラスト・シーンは彼の墓地が映し出されることになったという。こちらもDVD作品として発売される可能性があるかもしれないと言っていた。その他にもザヴィヌルの息子エリックによれば、ザヴィヌルが残した音楽遺産は、これまでに長年録り貯めてきた異なるメンバーによるザヴィヌル・シンジケートのライヴ・ベスト盤の編集作業がほぼ出来上がっており、それ以外にもザヴィヌル本人の手で録音済みの未発表曲が大量にあるらしい。これから何が出てくるか楽しみである。

追記:ジョー・ザヴィヌルの声(オーディオ/日本語訳もあり)を筆者のメイン・サイトで公開しています。

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by ReijiMaruyama | 2008-09-11 23:49 | Musician / Interview